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紀州路

山を水を人を』日本公論社,1933(昭和8)年12月15日発行,p176~199


色々準備ができたら青空文庫に載せたいなどと考えていますが、それまではこちらで公開。


この紀州紀行文は『山を水を人を』『山水随想』に掲載されていますが、前身は「大阪朝日新聞」への掲載だったようです。

また、雑誌『三昧』には、「紀州路」の文章とは異なる紀州旅行の文章も掲載されていました。


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 紀三井寺の建つ名草山を、俗にガンド山といふ。雁の頭と書くさうな。さういはれると、左に低まつて伸びて行く山の起伏が、雁の首を思ひきり展べた恰好に見える。紀三井寺あたりの、こんもりした森の茂りが、丁度その胴中にあたる。芭蕉の、夜寒に落ちて、といつた病む雁が想ひ出される。蕪村の、紀の路にも下りず夜を行く、といつたそれすらが唇頭にのぼる。

 が、このごろ開墾の荒鍬が、丁度その首のつけ根あたり、翼の肩かけて、一面の赭禿げにしてゐる。口の惡いのが、アヽもう毛をむしられかけたな、おツつけすき燒にならうわい、と義太夫もどき。

 名勝の保安林制度も、まだ/\行き渡つてゐないと見える。

 わかの浦に汐みちくればかたをなみ、といつた赤人の「かたをなみ」を「片男波」と曲解する名所自慢はまだ罪がない。和歌の浦は、この干潟のはろ/\に滿干する、靜かに長閑かな汐の眺めであつたものを、兇暴な埋立ての手が、根こそぎ臺なしにしてしまつた。その事實は、土地の人にまだ生ま/\しい醜惡を唆つてゐるはずだ。雁頭山の雁も、やがて裸體にむしられて、すき燒にならうも知れぬ。


 和歌山市の中央に位する城山にのぼる。親藩南龍公の遺趾としては、規模の餘りに矮小なのに驚かれる。名古屋のそれに比して、近くは姫路の白鷺城、松山の金龜城のそれらと、到底いふに足らない小さゝである。

 城樓の上から四方を俯瞰する。北東に五畿山脈、南東に紀和の山彙を控へて、めぐらすに紀の川の長流を以てした地勢は、雄大といふにはあたらないが、或る整つた清澄明媚感である。紀の川が、まだ名草山の方へ流れてゐたといふ、昔の吹上げの白濱といつた時代の面影さへが偲ばれる。

 吹上げの白濱といへば、男《ヲ》の水門《ミナト》が思ひ出される。その當時《カミ》は、まだ長髓彦の時代であつた。彦の矢傷を負うて、男の水門に出でました五瀬命《イツセノミコト》が、血沼《チヌ》の海に血を洗はれて後、我れ日の神子《ミコ》、何ぞ賤奴《ヤコ》が手を負ひてや死なんと、瞑目のその際まで、悲憤慷慨の言葉を發せられた、神代ヒーローの一劇的シーンが、まざ/\とそこに浮ぶ。男の水門は、今紀の川の注ぐ、そこらの白砂青松の間であらうと指呼しつゝ。

 五瀬命を失はれた伊波禮毘古命《イハレヒコノミコト》は、重大な相棒を亡くしながらも、雲煙の間に望む熊野の山深く、なほその壯圖をつゞけられた。さうして五畿平定の大業を仕遂げられた。

 左樣に雄心落々たる神代史に餝られてゐるこの地に、天下の親藩の名を負ひながら、自ら奉ずることの薄くかつ謙讓質素であつた南龍公は、矢張家康の血をうけた、徳川流の傳統繼承であつたのか。もつと威武四方を壓する底の、遠大な雄志を裏書きする、それは大阪城の城壁の石一つが、豐太閤の鴻業を象徴するやうな遺物、さういふものも一つ位あつて欲しいやうな氣もするのだつた。

 イヤこれは、ネル業不振のドン底にあつて、工業地帶の煙突の心細い煤煙下に沈滯しきつてゐるといふ現代和歌山とは、とつてもつかぬ沒交渉の遊人感懷に過ぎなかつた。

 二十年前高野から下りた時には手紙の行違ひで、この地を通過してしまつた。今度はまた縁もゆかりもないと思はれる、師範學校の若い職員方の招待であつた。和歌山と私は、いつまでもチグハグな關係の運命にあるものかも知れない。が、三日の滯和によつて、舊句同人、新知己とも、もつと順當な關係に置かれるやうな素地が出來た。さう一知半解な憎まれ口ばかりも叩いてはをれなくなつた。


 和歌山から御坊まで汽車。

 目につくのは芥子の坊主、これが一切に、茂つた山をうしろに、輝いた海を前に、丘や森と交錯しつゝ、吹きひらめいてゐた花時を偲ぶ。

 大阪からの泉州路は、一列に愛嬌もない玉葱畑だ。それが紀州路に入つて、さも暗轉するかに、風物一變するのだ。むつとした頭の重くなる匂ひが漂つてゐるやうで、何となく南國情調といつた昏睡が襲つてくる。

 去年から今年、南國を芥子畑化して行く加速度の著しさは、米も麥も作りがひのない、生活哀調の已むない一行進曲であるかも知れない。が、黒潮の流れにさそはるゝ紺碧の海、木の國の名に負ふ茂りを背景にして、それは打つてつけな芥子王國の存在でないであらうか。不景氣に蠶豆の豆殼を置き捨てにするより、芥子の坊主の行列、見通す限り、果てもない隊列に、どれほどユーモラスな、しかしセンチメンタルな特殊な新風景的情景が描き出されないといひ得るであらうか。

芥子坊主畑|莢黒《サヤグ》ロ 豆殼《ガラ》を梅雨《ツユ》空の明日を空


 道成寺といふ情火の纒綿するお寺も、能樂の道成寺といふ祕曲によつて、より強くわれ等に印象づけてゐる。よしんば一場の作り物語であるにしても、異性の間に當然發作する情熱の極致、そこに立脚した藝術味に壓倒される。假空な構想も、こゝまで突き詰れば自然と人爲を超越した、作者その人の偉大な情操の把握だ。華麗、豪宕、恐怖、戰慄、眩惑の詩だ。

 寺寶の繪卷物二卷を拜觀して寺の境内に出る。どこからが夢幻の世界なのか、どこからが如實の世界なのか、朦朧混沌たる感じだ。柏の枯れたのが、蛇の白骨然と立つてゐる。入間《イリアヒ》の櫻といふ老木の幹が、縒れ合つた大蛇の膨らみと色を思はせる。この寺へ登る石階の六十二段とかに限られてゐるのは能樂の亂拍子に因むとか、その亂拍子は、またこの石段を上る所作の舞伎化だとか、そんな虚傳らしい話にも耳をひかれる。殊に、この寺の界隈には、清姫をおもはせる美人を産する、といつたことすらが、奇異な因果であるやにも首肯かれる。

 私はこんな夢を乘せて、日高川の昔の渡しは、この邊であつたといふ堤の上に出た時、衣紋の前をあからさまに、赤い青い切れで蓬髮を飾つた一人の痴呆らしい女をチラと見た。茅萱《チガヤ》の吹きなびく穗の中に、もの思はしげに吹かれてゐた。眉目秀麗、百花繚亂の狂女をそこに見過すのであつた。

蛇寺《ジヤデラ》へか日高が渡し堤あとさき行くにと狂女《ヲンナ》


 御坊海邊の松原は、延長三里、ところによつては原の深さ一里に餘るともいふ。一度あらぬ道を踏み迷つては、土地の人すらもう方角が立たぬといふ、八幡知らずの松原だ。松といふ木に野法圖な自由を與へて、もうどうにも手のつけられない、やりはなしなだゞつ子だ。白砂青松も、かうのべつ幕なしでは、眺望にも名勝にもならない、捨たりものゝ砂漠だ。御坊の町が痩せるのも、この松のためなんだ。

 澄んだ海、細かい砂濱、亭々たる松、かね備はつた風致を荷厄介にする程、贅澤な御坊心理は、いはゞ自然に壓倒された、人間の捨鉢な逃避心理だ。といつてもをれない近代人の焦燥で、この放縱なだゞつ子を懷柔し、何とか物にしたい征服心理が擡頭してゐる。温泉は絶對に湧出しないとゞめを刺されてゐるとは言へ、この寶庫をどう利用すべきかに窮通の策が立てられつゝある。

 やがて四季常用のプールでも出來、質素な貸別莊でも建つやうになれば、簡易な遊覽地として、獰猛な果てなしの松も、輝かしい好背景をなすであらう夢を追ふのである。

捕るの甲虫《カブトムシ》唄はじか砂を砂の子


 ヲとヨは同音のよしみとでもいふのであらう、三尾村と書いてミヨムラと發音してゐる。ついこの頃カナダへの出稼ぎに惠まれて、代表的な一寒村が、代表的な一富裕村に面目を一新した、世界的移民國の一奇跡村である。御坊から約二里の海岸づたひ、小さな灣をかゝへて、岩礁の屹立する、風景もさまで平凡とはいはれない一漁村である。

 御坊の持てあます松原を見た私は、御坊がその資金の恩澤に與かつてゐるといふこの漁村を見舞ふ光榮に浴した。

 どの家もどの家も、黒いペンキかペトールを利用して、潮風に吹きさらされる木材を保護してゐる。丘陵の押し迫つた餘地のない掌大の前栽を全からしめる、コンクリートの塀がめぐらされてゐる。コンクリートの上に、裕かに垂れさがる鯉幟がある。鯉の外に、定紋を染めぬいた武者幟が對に立つ。如何にもわしらが男の子をことほいでゐる。

 しづかにをさまつた家並々々をのぞき込みながら海岸へ、狹い露次へ。饑ゑた犬でも、かやうに一軒々々かいでまはらないであらうやうに。

 子供はもちろん、働きざかりの男も、まして主人の留守を守る主婦達も、それが輕快な洋裝なのだ。麥を刈る鎌も、馬鈴薯を掘る鍬も、それがふさはしくもある洋裝なのだ。

 彼女らの箪笥は、ケースは、ハンドメードのレースで一杯であらう。ちよいと訪客をもてなすにも、アメリカン・ベーカリーの竈は大方電化されてゐるであらう。一年一度の歸省を樂しむ彼ら主人、アヽその手はまだ、鮭の油でヤニコクも滑らかであらうものを。

鮭とりの子は留主の父をよザザ浪|鯉幟《ノボリ》


 御坊から田邊までは、乘合自動車運賃三圓五十錢。運轉臺に遲れた二人を詰込む滿員沙汰である。この自動車が、途中何事もなく、豫定より十分も早く目的地に着いたのは、滿員自動車の上へ、更に鈴なりに、印南《インナミ》へお歸りになる巡査さんを便乘させたおかげであつたであらう。

 かつてはこの道を人力車で下つた私であつた。田邊の同人が、草鞋ばきで途中まで迎へに出てくれた街道であつた。アヽこの渚を刻む板岩よ、アヽこの頭上に垂れさがる枝垂れの松よ。


 白濱の白良莊、何にも知らなささうな粹な一間が、熊野路に入つた私の第一夜のくつろいだ部屋であらうとは。

 私は翌朝疾く、まばらな雨糸を浴びながら、うすら寒さを堪へてその白濱の白砂の上をさまようたものだつた。さうしてゆふべの痛飮を、こゝろゆくまで垂れ流したものだつた。さうしてそこに防風の花さくやさしい姿を見出して、オヽこの子と頬ずりしたのだつた。

防風砂じめるが花を此處|小松緑《サミドリ》が搖ら


 午前の晴れ間を見かけて、こゝも曾遊の千疊敷まで歩程を伸したのであつた。

 千疊敷が岩、それは南するに隨つて危矯味を加へて行く、南紀海岸美の第一關門であつた。

 東風《コチ》風のどうどうぶつかる飛沫を浴びて、我れ一人曾遊を記念して立つ爽快さの伴奏とでもいふのか、突如として西風の疾風が、はるか沖から白浪を蹴つて起きた。やがて岩頭の私を、塵一つに吹き拂ふものゝやうに。茶店の婆さんは、また西風になつた、晴れぢやノシ、とこともなげな一言を投げた。

うねり東風《コチ》どる疾風《ハヤテ》が西風《ニシ》の白浪|蹴《ケ》て立つて


 田邊で尊く懷かしまれるのは、梅仙老と南方翁である。二タ昔前の温容に接せんにも、梅仙老は疾くに幽明境を異にしてゐた。老亡きと共に、半生の勞苦を盡くした製墨も憐れ泥土に委してしまつた。曲りなりにも粗惡な製品に「梅仙墨」のレツテルを貼られるより、却つて玉碎の快よさで地下に安眠されてゐるかも知れない。私は今度和歌山の高井周耕氏から、老の遺墨「香辟」を一丁わけてもらつた。老の製墨藝術は、それが消費物であるだけに、日に日に、分秒を刻んでこの世からその姿を滅しつゝある。書畫陶磁の造形藝術のやうに、老を記念する製墨一通りを永久に保存して、毎年「梅仙墨祭」でもやる者の一人位はありさうなものだ。

 健在な南方熊楠翁に再會する。せめてもの心の悦びを祕めながらひそかにその風貌を胸に描いてゐた。西郷南洲を思はしめる、頑丈な颯爽味は薄らいでゐたにしても、人を射る眼光は昔ながらの翁であつた。

 今上陛下南紀御巡幸當時、進講の光榮に浴した話、その準備に海蜘蛛をとりに往く話、陛下にも御覽に入れたといふ海蛇の尾に海老の一種の寄生した實物、その海老が、蛇の生きて動くうち微妙な暗紫色の珠と輝いた話、支那の龍の畫に、往々尾頭に寶玉を描くのは、かやうな實例の示教によるとの結論、紀州の最高峰に菌採取のため、山頂に七十五日間、芋ばかり食つてゐた話、下山の際雪降つて道を分たず、橇やうのものに乘つて何百尺とかをずり下りた話、そのため兩手に凍傷を負うた話、三色版はロンドンのも近來粗惡になつて、日本のそれに劣る話、木蓮の事を外國雜誌に書くため、和歌俳句の例句を探すに三四日を費した話、俳句にも五句索引やうのもののない遺憾な話、そのいろを尼の好みや木蘭花、といふ句は釋迦がゴミ溜から汗ににじんだ柿色の衣を拾つた故事に思ひよるとの話、廿年前私が翁の當用日記に、木蓮が蘇鐵のそばに咲くところ、と拙句を揮つた、その日記をそこに展べるなど、翁の一人舞臺は、いつまでも盡きよう時がない。私はたゞ再會の敬意を表すれば、と思つてきたものが、いつか翁門下の學徒らしくも、その一語一句に引きつけられてしまふ。

 學識の深さ、經驗の豐さ、それは世界にいく人かを數へ得るかも知れない。童心にして眞率なる、無垢純情の翁、熱意熱情片言隻句にも溢るゝ赤裸々の翁、は再び見るべからずである。

 私はこの夜某社務所に開かれた座談會に、日本は南方翁を虐待して顧みない。お膝下の田邊から率先して、その好遇の道を開くべきである、と力説せざるを得なかつた。

 奇絶峽、動鳴溪、それは田邊附近の名として近來宣傳されるものであるが、瞥見した奇絶峽を例にとり得るなら、何の對話はなくとも、南方翁とその和漢洋書、標本、記録類の紛亂してゐると思はるゝ書齋に對座して、より意義のある時間を費すべきであつたと思ふ。


 その夜遲く、商船の快走船那智丸に便乘して午前五時勝浦に着いた。昔の二三百噸の老朽船に比して、眞に隔世の感である。瀞峽にのぼる九里峽のプロペラ船と相まつて、南紀文化の最尖端である。

 勝浦では赤島温泉主に迎へられ、一浴の後裏の狼煙《ノロシ》山に上つた。

 勝浦港内外の眺望は、恐らくこの山上よりするを第一とする。海中に斷續し、屹立し、蟠屈する岩石美を、縱にまた横に、平面に立體に、一幅の畫圖に、横卷の畫卷きに、出沒自在、參差縱横、變化の限りを見せてくれる。

 潮の岬を中心にV字形をなす紀州の海岸線、左北御坊邊にはじまる岩石美が、一旦田邊の千疊敷、三段壁の波瀾を上げた餘勢、右北南勢かけて徐々に南下の趨勢にある拮屈な屈曲線が、こゝに衝突し、凝集し、鬪爭する。それは潮流と風波の伴奏し助長する力の表現そのものなのだ。左北石軍、右北岩軍、こゝに乾坤一擲の會戰をした、驚天動地の大號叫、大殺戮の跡なのだ。拾ひ餘りの骨であり、晒された血であり、劍㦸矛盾の遺棄された殘骸でもあるのだ。


 交通の便のひらけると同時に、切りつめた日程が出來あがる。泊りたくも泊れない、休みたくも休めない。辯當持ちで那智に急行し、神社觀音に參詣し、瀧、普陀洛寺を瞥見して、あたふた新宮へ急がねばならない。

 それでも新宮鐵道那智驛の海岸の砂をふんで、山から摘んで來た、ふくよかな茱萸《グミ》を賞翫する餘裕があつた。何といふ豐な紅玉なのだらう。つやゝかに輝いてゐる、したゝる甘味を。

 そればかりか、紀州には鳶が多い。岩間をあさる鵜のやうなそれ、瀧上みを飛びすます鷹のやうなそれ。

茱萸ゆたに垂る子母の子や聲をそが母が


 丹鶴城趾の丘を東に控へて、茫漠とした砂磧。昔は海中に石垣を築き出したといふ、切支丹で名高い島原城のやうに、この丹鶴城も熊野川の長流に蒞む、畫のやうなお伽の國のやうな姿であつたであらうことが偲ばれる。

 今はこの磧に、おもちやに似た組立式の掘立小屋を並べて商取引をする。魚河岸でもあり、大根河岸でもあり、桑、繭の市場でもある。いざ出水となれば、手輕に家を疊んでの逃げ支度は、支那長江沿岸のアンペラ小屋よりも手つ取り早いといふ。

 丹鶴城時代とはまた別な、新宮新風景の一つである。

 この移動式商取引街を背景にして、瀞行きプロペラ船が、絶えず爆音をたてゝゐる。曳船時代二日がゝりの船路を、僅二時間餘で溯る快足船なのだ。この快足船は、歐米にもまだその例を見ない、新宮人特殊の發明にかゝるものであつた。何もスピード時代といふのではない。九里峽の長流に阻まれてゐる景勝瀞を天下に公開せんとする、自然への奉仕に端を發してゐる。それは、捨たり物の磧を、移動式商取引街にする新宮心理とも共通な創造であつた。

 プロペラの音響で、話も出來ない殺風景さは、やがて無音プロペラの時代の來るまで辛抱すべきではないか。

 プロペラ船中では、筆談か、さもなくば新聞を卷いた急造電話の外に道がない。

 新宮の史跡通小野先生、新聞紙大の紙に、墨痕淋漓として、九里峽の名勝と史實口碑等を略記して持參される。用意周到といふべし。

 そが中に、保元平治ごろの高僧專念上人の遺跡、飛鉢峰と七日卷きの淵、三十三間堂の棟木の柳を伐り出したといふ楊枝觀音、その棟木を曳く指揮の貝を吹いたといふ貝持岩。薩摩守平忠度の父忠盛棟木伐出しの奉行として來りし時、熊野別當の女に通ひて一子を生んだ、即ちそれが忠度であるといふ九重村誕生地の由來など、長流を挾んで駛走する紀勢の重疊たる山また山の中にも、數々のローマンスの籠められてゐる人間臭に興を引く。

 が、俗に達摩岩といふ露出した畸形の岩を覆うて、峻秀な峰の競立する蓊鬱たる處女林の滴たる緑は、峽を溯つて初めて爽快を覺える風致だ。さうして九里峽の前後、この俊鋭快適な颯爽味に再び接しないのだ。小野先生の案内記にも、


猪倉、達磨岩、三津の村下田長、九里峽の山水、敷屋村撞木山の邊と、猪倉より下釣鐘巖に至る間とを白眉となす


と大書してある。

 先生は更に筆談して、瀞より溯ること、なほ二里許、北山村竹原に大塔宮御座所跡といふのがあり、竹原八郎元規の屋敷跡といふもあり、大塔宮八郎の娘滋子を召されて若宮を上げさせ給ひしが、夭殤して古宇土宇宮に祀るともいふ由來を初め、熊野に逃れ入られた大塔宮の御道筋など、微に入り細を穿つのであつた。


 曾ては瀞八丁の結構の大きさと深さと、ひし/\と胸に迫る幽邃なしづかさと、限りなき森嚴の威壓と淨化と、聖者を讃美するやうな祕められた音樂と、妖女の影なくて明滅するやうな幻影に、たぐひなき魅惑と崇敬を味つた私であつた。

 その神祕な水、壯嚴な岩、依然として透徹した紺碧を無礙に湛へ、深奧な仄白さを點々と氣高く聳てゝゐるのであつた。清く澄んでゐるとか、明るく美しいとか、さやうな形容を超越した、靜寂にして幽幻極まつた境地であつた。

 私は再び聖域に入る息づまるやうな思ひで、その樓門をくゞり、その階段に近づく一歩々々の顫へを感じてゐた。まこと、そこには山神水鬼、木のすだま花の精のみの遊び戯れるべき舞臺であり殿堂であつた。

 あるかなきかに灯ともす岩|躑躅《さつき》淡盛《あはもり》外麻だといふ白うふさ/\した花、それらの點綴と配列にもよるのか、頭にかぶさる清淨な中に、一脈の蟲惑的な柔ぎと仄暖さを感ずるのでもあつた。


 昔は瀞八丁といつた。今は下瀞、上瀞、奧瀞と順次奧峽を開拓した。瀞は八丁ばかりに限られてゐない。その延長の上瀞があり、更に溯つて、固と小松峽といつた奧瀞を結びつけ、こゝに瀞の三峽が備つたのであつた。

 上瀞を突破して、プロペラ船の進航不可能になつた時、更に小舟を艤して奧瀞に驀入するのであつた。

 奧瀞の水は更に深く、恐怖に充ちた暗黒色を呈してゐる。蛟龍の棲むと言つた凄氣を湛へて、たゞドンヨリと油のやうだ。漣も立たない閑寂さだ。その閑寂を破るもの、我等の小舟をも、底知らぬ淵に吸ひ込まう鬼氣が迫るのだ。

 下瀞上瀞は、上に立つ岩だ。寢かしたものを起した感じだ。水面から、測り知られない巨人の力で牛蒡拔きにしたとも、鉞で削り下ろしたとも、そんな直線美の勝つた岩だ。巨人の目づもりで、上手に拔いたのも、下手に削つたのも、凸凹參差、それが幾萬年とも知らない永い年月の錆びで彩られてゐるのだ。

 奧瀞は横に這ふ岩だ。見てゐると、むく/\這ひ出して來さうに、左右の巨岩が千鳥足に根を張つてゐる。それは山神の枕であつたり、胡床であつたり、水精の踊り場であつたりする。下瀞で縱に鉞を揮った神樣も、同一方向の繼起運動に飽きが來たのだ。こゝでは横に薙ぐ所作に興味を覺え、起きあがるものを踏みにじるに、フレツシユさを味つたのだ。横に這ふといつても、瀧のかゝる懸崖があり、馬を容るゝ洞窟がある。それは下瀞上瀞にも見る、巨人の藝術心理の表現的技巧であつたのだ。

 岩礁の威壓に馴れた一行は、奧瀞に來て漸く雜談をかはす緩みと餘裕を見出した。新宮にも、この奧瀞を極めたもの、なほ十指に達しないといふ。男女二十名に垂んとする我ら一行を、かやうに多種多樣な俗物共を、初めて迎へた奧瀞の主が、さぞ尻込みしてゐるだらうといふ。


 三重、奈良、和歌山三縣の境界が角突き合ひをしてゐるといふ、とある早瀬の岩の平らに陣どつて、やつと晝餉の辯當を開く場面になつた。

 三重の漁師の生けてゐる鮎を、奈良の阿爺の口きゝで、和歌山の船頭が料理をする段取りである。そこへ私のポケツトにした東京のナイフが罷り出て、頭も腹もブツ切りの背ごしが出現するのだつた。

 何をさしおいても、青天井の下での原始宴會は、三峽の瀞の主にもふさはしい、嚴肅なものであることを思ふのだつた。

 奧瀞まで行く者は、もつと奧峽を探勝したい望蜀の念に驅られる。小野先生等の先驅者の談によると、まだ二三里の間、奇勝出沒するとのこと。ずつとの上流は、大臺ケ原より下りて、白川、古代などを經るもの、大和五條から入つて、七色、竹原に出る二つの道があるといふ。大臺ケ原より白川、古代に出る道は、私の會遊の地だ。大和アルプス縱走の時、私は白川から前鬼山に踏み入つて、そこの鬼の子孫だといふ行者の家に一宿し、それから逆に彌山を經て大峰に歸つたことがある。大和五條よりする難路を、草鞋脚絆の輕裝で踏破する時の近く來らんことを願ふ。


 餘談に渡るやうであるが、日本の峽谷美にとつて大なる脅威は、各水電會社の水利權問題である。その恐るべき前例は、既に各地に頻出してゐる。

 日本の溪谷美を代表する北の黒部峽も、若し水電會社が、完全に豫定のダム工事を遂行するものであるなら、最早や黒部の眞面目の大半を喪失してしまふ。日本アルプス群峰、劒、立山、白馬の峻嶺を背景にして、雄偉、怪奇を誇つてゐた、まだ人跡稀な奧黒部の景勝すら、根こそぎに破壞されてしまふのである。

 黒部に對して南の溪谷美代表者瀞峽も、もし水電會社の豫定線が完成するなら、奧瀞といはず、上下の瀞峽まで、徒らに岩礁の死骨を曝らすものになつてしまふことを恐れる。いふまでもなく溪谷美は、岩石美と溪流美の綜合である。殊に瀞峽は、大半水の美である。瀞から水を奪ふのは、直にこの峽谷の死を意味する。黒部のやうに既に工事に着手して、その一半を終了した後では、事既に遲い。瀞保勝會は、先づ工事の着手前、極力善處されんことを熱望せざるを得ぬ。


 切り詰めた日程は、匇卒として串本に向つた。新宮から勝浦まで汽車、勝浦から、再び那智丸に便乘して串本上陸、この間約三時間。串本に來たのは、有名な橋杭岩を見るより、古座川の溪流を、瀞との對照に一見したいためであつた、瀞のまだ著はれない前から、古座の奇勝として人口に膾炙してゐた。

 古座町は古座川の海にそゝぐ川口にある。プロペラ船目下休業中、止むなく明神村まで自動車を驅る。そこから溯江の小舟を、船頭二人で操つてゆく。

 鮎の友釣りの囮である十數尾を生けたまゝ船に積む。こゝまで同行して來た勝浦の赤島温泉主が、背ごしの料理方にまはる。コツプを川水で洗つて、徐にビールの滿を引く一行九名。何だか支那人の詩にでもありさうな舟遊氣分たつぷりである。

 瀞ほど豐富ではないが、水の清冽は勝るとも劣らない。近景遠望、小づくりで靜かで、手ごろだといふ氣になる。威壓も恐怖も、襟を正す尊嚴もないかはり、やさしくつゝましやかで、人なつこい親しさとゆとりがある。さうして、鍛へにきたへた荒くれ男の腕を見るやうに、ギザ/\した手觸りのわるさうな瀞の岩とは別に、丸々とふくらんだ、女性の肉《しゝむら》を思はせる潤ひを持つた古座の岩ではある。少女峰といひ、明月岩といひ、望仙岩といふ、名前も一々それらしくふさはしい。

 自動車で來る途中に、牡丹岩といふのがあつた。天然記念物に指定されてゐた。丸い團扇か太鼓のやうな巨岩の處々が、蝕んだやうに凹んで、そこに牡丹の花のやうな奇工な痕跡をとゞめてゐるのである。人間の飴細工でも、これほど手ぎはよくは往かない玉堂富貴圖である。

 舟が髑髏岩だといふ下に來た時、屏風に立並ぶ岩壁のそれが、蝕んだ凹みを持つ未完成な牡丹岩をなしてゐた。さういへば、古座の岩といふ岩、それは大方牡丹岩の延長でありまた餘波であつた。皺一つ見えない豐頬な岩面に巨大な靨があり、熟した果物に、鳥の嘴の跡をつけないのは見當たらないのであつた。その最終の大景、古座の最後を飾る一枚岩、巨人の食ひ殘した桃のやう、据わりのいゝ大きな岩さへ、土地の者のいふ大人の足跡が、ポコリ/\くりぬかれてゐるのであつた。

 時鳥に負けず、鶯も力強い高音を張る。沿川の村々の、田植にいそしんだ夕餉の樂しさうな團坐を見ながら、古座の舟遊、を我らも心うれしく終るのであつた。

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