食味私議
- 句碑 碧
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更新日:1 時間前
食に一家言ある碧梧桐による、味や土地ごとの食に関する随筆。
書きおこしにあたり、なるべく旧字旧仮名で表記しています。但しフォントによってブレがあり、全て旧字になっていません。
『女性』10(4),プラトン社,1926-10.
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河東碧梧桐
適應性を持つてゐるものは、どういふ土地に往つても、何でも食ひ、何でも飲む。目をつぶつて鵜呑みにするのでなくて、其の調味を十分に味はふ餘裕をさへ持つ。この適應性は、必ずしも先天性のみには限らない。 食味的鍛鍊を經た後天性に、却つて或る力强さがある。
「すききらひ」の多い我儘子息は、體質の如何にもよるが、大抵は女親育ちの世間見ずである。 單り後天的に進化せしめたものゝない許りか、持つた先天的味覺も退化せしめてゐるのである。
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「すききらひ」と言つても、絕對性と相對性の區別がある。奈良漬を一切れ食つても醉ふやうな反應性を持つた胃袋は、絕對にアルコールを拒否する。後天的鍛鍊を加ふべき餘地のない先天性である。
大阪人が東京の料理を惡罵し、東京人が大阪料理を低級視するやうな例は「すききらひ」の相對性である。互ひに位置をかへて、其の土地に馴れば、いつといふことなしに適應性を帶びて來る。始めは先天性の如く見做されたものも、後天的鍛鍊によつて進化するの謂ひである。
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他に尚ほ「すききらひ」の病的現象がある。木炭をかぢり、石油ガソリンの臭ひにあこがれる類である。或る宗教の信仰によつて、或る動物を神聖視する如きも、亦た一種の病的味覺である。常軌を逸した、特種性の「すききらひ」は、先天後天に論なく、多分に痴呆、狂人味を帶びてゐるのである。 味覺論から言つて、一つの除外例に屬する。
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要するに「すき」は多くの場合に於て「因襲のすき」であり、「きらひ」は多くの場合に於て、「食はずぎらひ」である。
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味覺より早く、先づ働くのが嗅覺であり、視覺であり、時には又た聽覺觸覺である。
ウニのきらひ、納豆のきらひ、バタのきらひ、それらは、特に檢討するまでもなく、刺戟的に發散する其の香氣?に對する嗅覺作用が支配してゐる。嗅覺の玄關の戶を堅く鎻して、味覺の客間に通ることを許さぬのである。先づ嗅覺の前驅と衝突するやうな、物それ/\の持つ揮發性は、同時に物それ/\の存在價値である。若し萬人向きの非嗅覺刺戟性の調味を作り得るなら、恐らくは同時に其の存在價値を失なふであらう。
嗅覺よりも、更により早く働くのが視覺である。食膳に並んだものと我との交渉は、先づ色である。光澤の有無、清濁の加減、それらも多くは色を主とする。食器の配列調和、それらも亦た色を基調とする。視覺に快感を與へる色の配合は、暗々裏にどれほど我々の食慾を使嗾するであらうか。
色には、主として我々の經驗に出發する、物それ/\の身體の持つ色調に關する複雜な感味が働らく。盛られた調味と、盛つた食器との關係にも働らく。マグロとメヂ、五所柿と冬柿の色調を鑑別する視覺、そこには訓練された視力の神秘が籠つてゐる。鯛の刺身の色と艶によつて、食慾を誘惑される舌頭感には、永い間の經驗の尊い批判力が培はれてゐる。更らに、食器と調味の融合味に至つては、より汎い睿智と感受性を持つ人の浸り得る詩的境地である。陶器に盛るべきもの、漆器に盛るべきもの、陶器は清水か九谷か、漆器は飛驒か輪島か、それらの色調に關するデリケートな感味は、よし刹那に動くとも、偉大な經驗を背景とする悠久味を帶びてゐる。
視覺は更らに物の形狀の上に働らく。其の形狀の外觀の示す内質にも浸透する。時には其の硬軟冷溫をも鑑別する。鱸の洗ひのハゼ方によつて、食味の程度を豫感するのは、外形と内質と硬軟冷溫に浸透する、一種の透視的魅力でもある。
色と形と質とは、相俟つ審美條件である。榮養を主とする食味に、審美條件を不必要とするやうな未開觀念は、遂に榮養の醍醐味を語るに足らないのである。
そばの打棒の響きによつて、そばの味を豫感する例は、食味的聽覺であり、いゝ赤さをしてゐる桃を手して選擇するのは、食味的觸覺である。それらは卑近な一例に過ぎぬが、生きてゐるやうな香魚の鹽焼きに、山川の潺湲たる無音の音を聽く幻想に驅らるゝこともあらう。初物の青海苔の香を前にして、渚に出沒する岩石の肌を想起する場合もあらう。嘗て强く深く印象づけられたものは、潜在意識として沈潜しようとも、永久に磨銷く盡くすものではあり得ないのである。
かやうにして、尚ほ仔細に檢討してゆけば、食味の問題も、單なる舌頭の一作用のみではない。睿智と感情と環境と經驗に培はれた、複雜微妙な世相と人格の織り作す生活種々相の一端に外ならぬ。輕々しく何が甘いのまづいのと、貧弱低劣な食味感を口走ることは出來ないのである。
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一體原始人は、自然の與へるまゝに、野生の味覺をしか持たなかつたであらう。火の發見された後にも、燒き煮ることは、恐らくずつと後に發明されたであらう。
狩獵、耕牧、漁獵と、山に住み、平地に住み、海岸に住む團體的民族化が、それ/\の適者生存の分業的永住地を見出して後、始めて同一材料を如何に別種の調味によつて食すべきかの問題に逢着したであらう。
調味の始源について、其の分布について、且つ其の開展と變化について、的確な史料によつて考究して見たく思ふ。調味の始源は、恐らく世界の謎である埃及のスフインクスの示すレコードよりも、もつと遠く原始に溯り得るであらう。紀元前幾萬年かの食味の悠久性は、今日の我らの食味にも何らかの影響を持たねばならないであらう。
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印度人が芭蕉の葉に盛つたもろこし飯を手づかみで食ひ蒙古人が焚火に金網をかけて羊肉を燒くたぐひの、原始的遺傅と見らるゝものを除いて、今日の世界の食味調理法は、略ぼ然かくあるべきものが、然かくあるべき處に安住してゐるやうである。
概觀して歐米は同一傾向にあり、略ぼ相似た規準に據つてゐる。フランス料理とスペイン料理を食ひわける微妙な舌頭感は、京都料理と大阪料理を食ひわける程度の大通の仕事である。食味博士の專門的鑑別に俟つものである。
歐米に對して別な傾向を持つものは支那料理である。人によつては、支那料理を料理としての最も進歩したものであるやうにいふ。煮沸の綿密なのと、複雜な調味料の緩和觀から然か斷定するらしい。之も廣東料理、北京料理、山東、滿州と各地によつて特徴を持つとの事であるが、そこまで味到し得るには、少くも十年の經驗を積まねばならないであらう。
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各種の脂油と、各種の刺戟性調味料と、鹽、砂糖、火、水を土臺にしての食味は、歐米の環境によつて西洋料理となり、支那の環境によつて支那料理となつた。其の嗅覺視覺味覺に訴へる刺戟は兩者全く方向を異にしてゐるやうであつても、其の調味意識、卽ち如何にして食用材料を生かすかの料理觀念は、決して相背反するものではない。むしろ同一軌道を歩むものと見て大差はない。
牛肉が豚肉にかはり、燒パン代用に蒸パンを用ひる、それら材料と多少の手段は相違するにしても、總てを滋養化した濃厚な脂肪の煮焚味は、料理としての略ぼ同じ目標の下に集まらうとするものである。衞生觀念の合理的であるや否やは別として、さうしなければ食味に興味を持たない慾求のスタートは、固と同一ラインに立つ選手の態度そのものである。
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食味としての進化は、もう歐米と支那の料理に盡きてゐるのであらうか、其の行き詰まりに安住すべきなのであらうか。他に方向轉換の途は見出されないのであらうか。
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かやうに世界を見渡して、何物をか求めようする舌端に、異樣な快感をもたらすものは、我々の日本料理である。
極東の孤島に蟠居する住民の特殊の調味は、之を味ふ人口の上に於ても、其の分布の廣さに於ても、言ふに足らぬ程狹小である。世界的舞臺に持ち出す資格はないものであるかも知れない。若し一部特殊な調味を擧げようとするなら、恐らくエスキモーにもアイスにも學ぶべき調理法の存在しないには限らないのである。
併しながら、我々の日本料理が、左樣に未開的であり、局部的であり、世界の文化に伴なはない特殊性のものであるであらうか。まア姑らくお待ちなさい。
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支那料理は、煮沸の綿密と、調味料の總和とで、世界に冠たるものであるであらうが、其の翫味方法は、尚ほ多分に原始味を帶びてゐる。多勢が一つ鍋をつゝき合つたり、魚肉の骨を吐き散らかすなどがそれである。料理の冷えない湯オンドルの考案はいゝとしても、鍋の形は略ぼ一定の鑄形であつて、料理の變化に伴なはない憾みがある。要するに支那料理は、整頓した食堂の會食感でなくて、臺所の竈の前に打ちくつろいだ飽食感に終始する。野趣はあるにしても、実感がない。味覺に囚はれて他を顧みる餘裕を存しないのである。
西洋洋理は其の點全く趣を異にする。整頓した食堂感は、餘りに幾何學的規矩準縄に拘泥しすぎる程完成してゐる。 我々の粗野な服裝が、其の燦爛たる光りに照らし出されて、多少の畏縮と壓迫を感じないことはないのである。歐米人は、其の整頓を文化の頂點であるかのやうに、多くの矜りを持つてゐるとしても、一旦食器の問題に移れば、單一と固定を目標として、他の變化も配合をも顧慮しない無關心の態度である。若し食堂を整頓し裝飾する同一の考案が食器にも拂はれてゐるとするなら、其の考案の單調に馴れ、因襲に支配された無趣味さを指摘せねばならない。要するに、人工味と幾何學味の勝つた完成に累ひされて、食器の藝術味を閑却してゐるのである。形式的淸淨さはあつても、心からの淨化をさそふ詩的情趣に乏しいのである。
日本料理ほど、形、色、線、質、それ/\に複雜な材料を具備した食器は他に類例がない。それに彫刻的要素と繪畵的裝飾の意匠をも加へてゐる。食器の一つ/\が、工藝品であり、味覺を離れて鑑賞し得るばかりか、その工藝品を如何に食味と融合せしめるかに、美術家のやうな審美的努力が拂はれてゐる。其の餘りに特殊な配合と異樣な献立ては、形美と色美と質美の交錯が、視覺を幻惑する反感をさへ起さしめる。とは言へ、日本料理の庖刀をとるものが、刺身をどう手際よく並べるべきか、鯛は何、マグロは何と、そを盛るべき食器をあさる心理の細やかな律動的な動きは、支那西洋料理のキツチナアの誰もの想像し能はぬ世界でなければならない。
一體日本でもお茶料理のやうに、一品々々を次ぎ/\に出す場合が絶無ではあり得ない。けれども、同時に多樣の料理に接せしめて、其の視覺、嗅覺を各方面から誘導し使嗾するに役立つ「お膳」といふものゝ働きも亦た日本料理の持つ食器の特異性である。一般的な衞生論に立て籠つて、「お膳」廢止論を唱ふるやうなやからに、日本料理の微妙性は、恐らく不可解の謎であらう。
日本の山水、人間、社會狀態、それらの多くがさうであるやうに、日本料理の食器も、小さい輪廓と、薄ペラな内容とで、目ぐるましい混亂を感ぜしめるものがある。よし兒戯に等しい混亂を感ぜしめようとも、食器に對する實用と裝飾を兼備する上に於て、矜るべき何物かを持つとの斷定に、躊躇することなく到達し得るのである。
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支那で生マ物を食ふ場合は、殆んど野菜に限られてゐる。西洋でも、野菜と果物の外には、除外例として牡蠣がある位であらう。生マ物を食ふ點でも、日本料理は世界に冠たり、言ひ得るであらう。
魚類、貝類、海草類、時には肉類、それらの生マ物は、日本料理日常の食膳に常に愛翫せらるゝのである。
生マ物を食ふのは、料理法の發達しなかつた原始の遺風であるとは斷定し難い。
煮焚する料理法は、材料の特有する味質の餘剰を排除して、其の本質の美しい眞味を採るを目的とする。筍や蕨を茹でるのは、餘剰のアクを拔くのである。牛肉を燒き、鶏肉を蒸すのも同じ目的である。若し餘裕の稀薄な美質のものをも、尚ほ煮焚しなければ料理としての資格を持たない、と考へるならば、そは個々の材料の味質に暗愚な、料理上の煮焚的慢性患者である。餘剰を排除する目的は、却つて其の本質を煙にする結果を生むのである。
豆腐や西瓜に庖刀を入れる事を嫌ふのも、更らに一層微妙な本質の擁護である。
生マ物を尊重して、其の本質の美を全的に享樂しようとするのは、未開の遺風であるよりか、却て最も進歩した味覺の向上を意味する。本草學者が、嚝野に叢生する草木の有利と有害を色別し、其の有効の特性を記錄したのと同じに、永い間の實經驗の生んだ尊い味感の進化である。
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生マ物と關聯して、脂油類を料理の根據としないのも、單り日本料理の專らにする調理法である。
昆布ダシ、鰹節ダシを調味の本位として、材料其物の持つ自然味を保續し、出來得るだけ舌頭感味の强い刺戟を避けようとする傾きは、脂油類の嗅覺視覺味覺から努めて脱却しようとするものゝやうにも見える。極端に言へば、脂油類の持つ調味力を放擲した無理解の態度でもある。
一二の特例を擧ぐれば、支那料理にも、蟹(川蟹)の酒漬、貝(蜆位の小貝)の鹽茹でなど、西洋料理中にも、パリの魚料理、蟹サラダの如き脂油を根據としないものがないにも限らない。けれども、それらは、日本料理中に、更らに無刺戟な豆腐料理、蕎麥うどん類などのあるよりも稀れな異例に屬するのである。
なぜ日本料理にのみ、脂油類を拒否した無刺戟性の調理法が發達したのであらうか。
言ふまでもなく材料の關係であり、國民性の反映であり、一方には人生觀社会觀、他方には文學藝術の影響する、民族心理の一發現である。
世界的に脂油類を根據とする料理法の普及してゐる中に單り超然として其の圈外に立つ日本料理は、或は食味上の一奇蹟であるかも知れない。
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試みに、若布、モツク、ヒジキのやうな海草を一種の好下物として珍重する料理が何處にあるであろう。鮑の水貝、鳥貝の甘酢、そのやうな調理法がどこの國に傳つてゐるであらう。コノワタ、ウニ、カラスミ、シホカラの海產、豆腐、納豆、蕨、ぜんまいの陸產、殊には長生殿、越の雪、水羊羹、葛饅頭の菓子類、番茶、煎茶、抹茶、玉露の飲み物、それらに言ひ知れぬ味覺をそゝらるゝ人間がどこに棲んでゐるであらうか。
要するに、それらくさ/゛\の料理及び飲み物は、所謂「趣在有無間」の無味の味ひであり、無嗅の香ひであり、無色の彩りでもある。
日本人は、無味の味ひを味はんとする食蕩樂者である。
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米国へ綠茶と稱して、日本のお茶が輸出される。紅茶と併稱する程あつて、これにも角砂糖を入れて、スプーンで掻き交ぜて飲むに至つては、駟も亦た及ばずの概がある。
始めて日本に來たらしいイタリー人らしい家族連れの一團、國府津で鰹の鹽辛の一桶を買ふ、さて/\日本通なるものと見てをれば、中のお孃さん、急ぎ蓋をとつて見て、さも惡魔にでも襲はれたやうな「エヽツ」の叫びと共に、床下へ投げ出してしまつた。寔に無理もないこと。
日本に在住する西洋人で、時には竹葉の鰻を食ひに行くやうな通人は往々にして見かける。鮓屋の矢大臣に陣取る風變りの異人さんも無きにしもあらず。が、味噌汁と、ドブ漬と澤庵に至つては、遂󠄂に近づくべからず。
日本の版畵が西洋でモテる、といふ事を鼻高くしてゐる人も澤山ある。が、版畵のどこがもてるのかに至つては、曖昧にして模糊である。中には、版畵の色彩に刷毛目がある。どういふ印刷術で、アゝいふ微妙な線を出し得るのか、とそこに好奇の目を睜つてゐるのだ、といふ人もある。日本通、日本通、さういふ新たな言葉が西洋にタイフーンの如く流行してゐる今日、版畵愛翫も、せめて食つても見なければならない竹葉の鰻や、蛇の目の鮓と同一列でない、と誰が保證し得るであらうか。
若布、モツク、水貝、鳥貝、コノワタ、フグ、蕨、豆腐、玉露、それらの本質的なものに味倒して來る西洋の足並みは、如何に遲鈍にして、前途遼遠なる!
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支那、西洋料理は、主として人間の獸性を補充する。少くも肉的缺損に役立つ。
日本料理は、主として人間の靈性を補充する。少くも獸的慾求を淨化する。
獸性を補充するものゝみが、必ずしもカロリーを多く持つとは限らない。
獸性を補充するに馴らされたものが、一番餘計に、世界の平和だとか、人類の幸福だとか、さも靈性を持つらしいことを言ひたがるではないか。
食味關係が、どう人間文化の向上に影響するかに目覺める時はやがて來るかも知れぬ、否永遠に來ないかも知れぬ。
我ら日本人は、そこに大きな世界的矜りと安心立命を持つ。
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併しながら、西洋でも近頃では、コーヒーや紅茶に牛乳を加へないのがはやるさうだ。ブラツク、と言へば、コーヒーのキであるテキニツクにもなつたさうだ。もつとハイカラなのは、ブラツクに砂糖も入れないですましてゐるさうだ。ソースをかけるのを野暮として、鹽で料理を食ふやうになつたのと同一筆法であるかも知れないが、そこまで我慢が出來るなら、ついでに玉露の一二滴を味ふ元氣まで突進せしめたくも思ふ。
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刺戟性から無刺戟性へ、脂油から昆布へ、肉から魚へ、焚煮から生鮮へ、純味覺から詩的情緒へ、有味から無味へ、この道程は、東海道の分間圖ではないが、人間が獸性から解脱して行く、振り出しから上りへの正しい道筋であることを宣言するものである。——大正一五、八、二〇——
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