美濃より=伊豫へ=九州へ
- 句碑 碧
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更新日:15 時間前
江戸時代の「俳諧」をテーマに、特に芭蕉周辺の人物に焦点を当てて、岐阜県、愛媛県、大分県へ訪れている紀行文です。
書きおこしにあたり、なるべく旧字旧仮名で表記しています。但しフォントによってブレがあり、全て旧字になっていません。
『俳句研究』1(6),改造社,1934-08-01
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河東碧梧桐
十八樓遺跡
美濃の國も結句俳諧國だ。外にこれと言つて史上に輝くものゝ無かつたせゐもあるが、大垣を其の發祥地として、支考の獅子門は、美濃一國を、他流不可侵の堡壘で固めてしまつた。現に、芭蕉の十八樓記を楯にして、長良河畔に其の名の覊亭のあるなど、俳趣浸潤、目に見ゆるものゝみでもないことが首肯かれる。
今の十八樓は、もう何百年と移轉したことはありません、と頑張つて、入口の庭先きに丁重らしく、「このあたり」の句碑を建ててはゐるが、書體や彫り具合から言つて、さまで年數は經つてゐないやうだ。
同じ町内、稍西に——昔は川原町、今は玉井町——池田富次郎氏方裏庭に、一基の句碑がある。同じく芭蕉の「このあたり」で、碑陰に「寛政十三申秋蘇坊拜書」と、明らかに年號と施主が記されてゐる。この句碑は、芭蕉の往來した加鳥鷗歩の舊宅を記念する爲めに建てられたものと言はれ、十八樓の舊趾は、却つてこちらであらうと推定されてゐる。寛政五年岐阜の岡崎風盧坊が、芭蕉の百囘忌を期して、大垣の芭蕉塚通稱尾花塚の墨直しをした時、參會者の中に、美江亭文蘇坊の名がある。恐らく同じ文蘇坊なのであらう。
池田氏の談によると、この邊可なりの傾斜になつて河に蒞み、句碑も始めずつと奥、今の建物のあたりにあつたのであるが、地盛りをして、かやうに畑まで作り、家も新築をした。依て句碑もこゝに移したのであると。
十八樓記に「いなば山後に高く・・・・田中の寺は杉一村にかくれ・・・・さらし布所々に引きはえて、右にわたし舟うかぶ・・・・」とある景勝今尚ほ指呼の間にある。美江亭といふのを見ると、文蘇坊或は其の樓趾に結庵でもしてゐたのであらうか。たゞ寛政の庚辛は十二年である。十三年は筆者の誤りか。
梅花佛
鵜平と自動車を驅つて、武藝山の山田三秋氏を訪ねる。東ぢや南ぢや、と言つて、そこらを右往左往、村の春祭りと見えて、神社では餅まきなど、着飾つた女の姿も賑々しい。武藝山と言つたら、猿と兄弟のやうに思つて、いつかの緣談も出來なかつた程だが、へーこんな墾けた土地か、と鵜平が頻りに感歎してゐる。
山田氏は、獅子門以哉坊派の第廿九世、俳本山の當主なのだ。古色蒼然たる昔ながらの邸宅、武藝山長者とも言つべきである。奥まつた座敷に通ると、床の間には、昨年還暦記念に揮毫した私の「魚活けて君待てばけふも/\東風」が、立派な表裝で掛つてゐる。他流不可侵の本山も、昭和九年には、西部俳線異狀ありか。
鵜平が山田氏を私に紹介したのも、支考の事蹟に就いての疑義があつたからだ。
岐阜邊では、今でも支考のことを「見龍さん」と言つてゐる。大方支考が坊さんであつた時代か、醫者をしてゐた時の號と心得てゐた。或書には、伊勢に隱れて醫を業とした時、見龍と言つたとあり、山田氏の支考略傳にも、「書信には多く見龍の號を用ふ」とある。其の見龍號の使用時代なのだ。さすが本山の山田氏も、さういふ細かいことになりましては、と速答出來難い樣子だ。他日の研究に俟つことゝし、夕闇の中を、山田氏案内して、山縣村大智寺内梅泉院の支考墓地に詣る。
墓は徑一尺五寸許の丸石、表に「梅花佛」、裏に「寶永辛卯八月十六日、同人小子蓮二房建之」の、何かの俳書で見た共のまゝ。
寶永辛卯は同八年であるが、五月七日に改元して「正德」となつてゐる。いくら山深い在郷でも、改元を知らずに過すのは香氣だ。のみならず、正德元年は、支考が假死を裝つて、「阿難話」といふ追善集を刊行し、窃に北陸地方に逃れた年である。追善集を刊行し、この墓石を築くにも、想應の時日を要するものとすれば、假死計劃も隨分準備工作に手間取つたものらしい。何の爲めの假死であるかは不明だが、其の後繼者が、支考の眞の歿年享保十六年に、新たな墓石を作らず、其の假死墓の下に葬つてゐるのも、何か他に理由のあることかは知らず、門外漢には解釋のつかない呑氣さだ。更にこの「梅花佛」を廻つて、彼れ再和派がさうするなら、我れ以哉派はかうする、と獅子門二派の對抗的墓碑の林立するのも、まあ呑氣な爭ひに屬する。
昔の梅泉院といふお寺はなく、墓守かた/゛\、支考の晩年に隱栖した小庵を模した小屋を建てゝゐる。僅に二夕間しかない容膝の蝸廬である。若かりし昔は、客氣縦横、衒氣澤山であつた支考も、翻然悟る所があつたのであらう。かやうな蝸廬の中から、よし「和漢文藻」の一集が生れたとしても、其の業にいそしむ晩年の操守が思ひやられる。
折節大智寺の鐘が、夕靄の罩めた、亭々とした杉の森の中に響く。墓門に到るまでの道に植ゑた梅の花が、白々と浮き上つてゐるのであつた。
木因が倒れた
杭瀨川と水門川の落ち合ふ處、今も桑名行の小舟が出る。 この水運の便しか無かつた昔の船問屋の繁昌は想像の外だ。谷木因はこの船問屋の主人であつた。若くして京都に遊び、北村季吟に俳諧を學んだといふから、餘裕のある生活ぶりも想像される。貞享元年芭蕉「甲子吟行」の時、大垣に來て木因の家に泊つたのは、季吟の同門といふ關係にもよつたのであらうか。時に芭蕉歳四十一、木因三十九歳であつた。次いで貞享五年(元祿元年)、芭蕉再び美濃に遊んで、大垣の木因を訪ひ、「かくれ家や月と菊とに田三反」の句を遺した。 この時芭蕉は、岐阜にも遊んで、 「十八樓記」などを書いてゐる。
さういふ關係に於て、木因は美濃蕉門の鼻祖とも仰がれてゐるが、翌元禒二年「奥の細道」の旅を終つた時は、近藤如行の家に入つて、曾良は伊勢より、越人は名古屋から馬を飛せたりしてゐるが、土地に住む木因は、其の俳座には稀にしか加はつてゐない。却つて其の後輩、荆口、斜嶺、此筋、千川、怒風、竹戶等、師弟、親子の情を盡してゐるやうである。
こゝに大垣に殘る口碑に、木因は常に靑バナを垂れてゐたといふのがある。無類なお人よしであつたといふのがある。現に谷家に遺つてゐる、木因剃髪の時の像を見ると、著しく頭蓋の大きさが目立つ。度外れた頭の大きさである。低能感をさへ與へる頭蓋の尨大さは、或は大垣の口碑を裏書しないにも限らない。
天和年代から元祿三年頃まで、芭蕉と木因との交通はあつたらしく、木因宛書翰も遣つてゐるが、元祿五六年に至つて、其の跡を絕つやうである。若し木因が芭蕉の新風を理解してゐたとしたら、少くも「猿蓑」「炭俵」撰集時代、正に大垣の一門と共に其の名を謳はるべき機會であつた。
宵の月西に薺のきこゆなり 如行(猿蓑)
首出して初雪見はや此衾 ミノ 竹戸(同 )
目の下や手洗ふ程に海涼し ミノ 垂井市隱(同 )
この三句が、僅に美濃の収穫である。
明日といふ花見の宵のくらさ哉 荊口(炭俵)
柿寺に麥穗いやしや作とり 同(同 )
芋喰の腹へらしけり初時雨 同(同 )
たかれてもをのここいきる花見哉 斜嶺(同 )
枯柴に晝顏あつし足の豆 同(同 )
漏らぬほとけふは時雨よ草の庵 同(同 )
小屏風に茶を挽きかゝる寒さ哉 同(同 )
鬼の子に餅を居るも雛かな 如行(同 )
東雲やまいこ戶はつすかさり松 濁子(同 )
麥の穗と共にそよくや筑波山 千川(同 )
なりかゝる蟬から落す李かな 殘香(同 )
凩の藪にとゝまる小家かな 同(同 )
庚申やことに火燵のある座敷 同(同 )
團寶侍町のあつさ哉 怒風(同 )
「炭俵」に至つて稍面目を施してはゐるが、遂に木因の名を見出すことは出來ないのである。
芭蕉の終焉集「枯尾花」には、如行、濁子、蓬山、京葉、大舟、左柳、此筋、千川、竹戶、荊口、斜嶺、文鳥、怒風、殘香等、或は句に、連句に其の名を列ねてゐるが、木因は見當らない。其の百ケ日を期し、宮崎荊口の發頭で「後の旅集」を大垣で刊行してゐるが、木因はこれにも與つてゐないのである。
養老寺欄間——前號參照——の奉納は元祿四年、如行、荊口等の同人當然參加すべきだとも思はれるが、それが全く沒交渉であるのも、多少思ひ當らぬでもない。
惟ふに木因は、年輩の略ぼ同じな舊相知に接する程度の、芭蕉との接近でなかつたであらうか。其の季吟傳統の俳諧は、芭蕉の新風を會得するには、餘りに强力な障壁でなかつたであらうか。二度目に芭蕉を迎へた時の句が「矢張めせ此處は伊吹の吹きすかし」であり、三度目の送別が「秋の暮行く先々の苫屋かな」とある。それら貞門を脱しない句風も這間の消息を物語つてゐるやうである。
木因の生涯については、尚ほ多くの巧ふべきものが殘されてゐるやうである。
大垣に著くなり、大野國彥、宇野二郎二氏の案内で、木因の墓に詣り、——東船町正覺寺——次いで、杭瀨水門二川の合する橋の袂まで來た。そこには、木因の遺跡として唯一な、木因自筆の石の道標があるのである。「南いせ くはなへ十リせいかうみち」と書いてあるといふ。芭蕉の來垣を迎へて、歡びの餘り立てたのだともいはれてゐる。が、一寸見には、そこらに其の影さへもない。驚くべき異變珍事、正に大垣の最大ニユースであらうとしたが、何のこと、其の道標は、字を下にして、そこに根こそぎ倒れてゐる。しかも中途で無惨に折れてゐる。大野氏聲を揚げて、アツ木因が倒れた、といふ。すぐ前の床屋主人飛び出して來る。其の話によると、ホンの今朝程、どこかのトラックが引ッかけたらしい。
大野氏等かね/゛\この道標保存につき、當局へ再立献言したともいふが、今この爲體である。——其後この道標舊位置に修築された由。
木因が杭瀨の翁と言はれた因縁の小川——實は運河——も、近近道路改修で埋沒される運命にある。まるで一分刻みな木因抹殺の段取りでもあるやうだが、そんなことに一切無頓着なのは、誰あらう、當の木因其の人であるかも知れない。
埋髪碑と埋髯碑
子規居士生前、病床での世間話。當時何とかいふ老文士が松山に遊んだ紀行を新聞に載せてゐた。中に、出淵町の小川——今は埋めてある——で、子供二三人が泥鱒をすくふ樣を、長々と事面白く書いてあつた。居士は、其の紀行を私に讀ませてから、輕くハッハッと笑ひながら、松山には見物する名勝も古蹟もないからな、仕方なしこんな、何でもないことでも書くやうになるのぢやな、と。それが、居士の埋髪塔が正宗寺に建つてから、随一松山名所にならうとは、いかな居士でも思ひ及ばなかつたことだ。正宗寺の和尚さんが、火災後の本堂再建よりも、埋髪碑に因んで出來た子規堂再建に熱中してゐるのも、言はゞ俳德卽佛德の弘通なんだ。
そこへ、鳴雪翁の埋髯碑なるものが、埋髪碑と並んで建つた。鳴雪翁は、生前其の壽碑を、道後公園に建てられたのだから、さう/\碑二つもといふ説もあつたが、埋髪と埋髯に感興を持つたものは、生前のお二人の間をも思つて、暖かい新名所の松山に出來ることを喜んだ。
が、埋髯碑は後に出來たにも關らず、埋髪碑とは釣合のとれない、馬鹿に大きな石を建てた。單獨な建碑でない、前に埋髪碑があるのであるから、其の相對關係を心すべきであつた、と今に埋髯碑の評判が餘り芳しくない。恐らく地下の鳴雪翁も、翁の謙抑な氣持から、居ても立つてもをれない位恐縮してをらるゝであらう。
當時松山の或商人が、子規居士の句を燒きつけた「子規煎餅」を賣り出した。これも餘り氣乘りのしない、居士の顰蹙することではあらうが、松山に一名物を加へる點、まア大目に見逃しておくれ位で、私も其の箱書をしたりした。次いで鳴雪翁歿後に「鳴雪羊羹」が出來た。次は「虛子饅頭」か、それから・・・・僕は甘い物は御免、「碧酒」位の辛い方だよ、などゝ笑つたこともある。
美濃と違つて、伊豫の俳諧國は、明治・昭和の出來たてのホヤホヤなんだ。現代俳諸國なんだ。現代的にいろんな、又どんなことを考へたり、仕出來すかわからない。蝕んだ文獻をいぢくるのとは、大分樣子が違つてゐる。が、近頃この名物屋、世間の不景氣につれてか、商賣更に振はず、將に其の影を沒せんとしてゐるといふ。それでいゝ/\。强ひて作るといふのも仕方がないが、自然に滅びりやア、無かつた昔に還る、きれいさつぱりした生地に戾る・・・・胸に痞へてゐたものが降りた、すッとした氣分を、居士も味つてゐることであらう。
日田風景
廣島の風律も、鹿兒島の莞而も、中央に出てゐないし、地方の雄といふだけで、其の俳歴に觸れやう興味が薄い。が、日田の朱拙は時代が時代だけに、一應は、どんな人間か位調べて置きたい。
ともかく、元祿の芭蕉にゆかりの遠い九州の、しかも豐後の山の中で、其の新風を謳歌したのであるから、單に芭蕉の盛名に釣られた雷同者流と別な、本統の感受性を持つてゐた人としか思はれない。殊に、其の手に成る俳書が七八册にも及んでゐる。隱れたると言はんより、現はれたる芭蕉フワアンの鏘々たるものである。
それに就いて、堀田麥水ではないが、元祿七年の芭蕉のアノ旅を、豫定通り九州長崎まで完了せしめたかつた。若しアノ旅が完了してゐたら、麥水の言ふやうに、更に蕉門の一新風を生んだであらう以外、朱拙のやうな眞の理會者が、肥の海豐の山から、もつと有効に現はれたであらう。さしづめ想像されるのは、九州滯在中、朱拙の名によつての一選集である。さすれば芭蕉七部集も、今のやうな曖昧な組合せではあり得なかつたであらう。
が、朱拙の生涯も、野紅・りん女夫妻の事蹟も、今や殆んど埋沒して、何の手がかりも、史料の史の字も堙滅してゐる。朱拙にしては、餘り芳ばしくもない生涯の、結句闇史として葬られた方が本意であるかは知れないが、元祿の盛時と、芭蕉の仕事を追慕する者にとつては、其の斷簡零墨もが珍重されるやうに、芭蕉門徒の一無名人の足跡をも明らかにしたいのだ。
日田は九州第一の長流筑後川の上流に蒞んでゐる。久留米へ十里といふから、河口からも約十里の山中である。途中山岳重疊、河幅狹隘な處もあるが、日田附近は、却つて廣濶な一盆地を成してゐる。
筏を流す爲めでもあるか、水は河輻一杯に滿ち滿ちて、恐らく筑後川のどこの河幅よりも、日田を以て第一とする程、水漫々とした眺めである。岸に立つて、先づ眼豁け、胸寛ろぐ思ひである。
日田の生命は、一にこの水にかゝつてゐる。日田の山々、特に峻嶮でも奇拔でもないが、蓊欝とした濃き茂りを見せてゐるのも、この水のせいである。夜明けの霧の名所と言はるゝのも、この水あるが爲めである。まして日田人の誇りとする鮎の味、この清洌に竢つのは言ふまでもない。
日田の町の中程、この水に蒞んで突兀とした龜山がある。今は小公園としての設備もある。寔にこの長水を觀る天與の位置を占めてゐる。「豐西記」といふ書によると、大昔はこの盆地が大きな湖水であつた。それが一日地震鳴動して、西の崖が潰れ、湖水變じて平野となつた。其の時三つの岡を殘した。其の南なるを日隈、西なるを星隈、北なるを川隈と言つた。其の日隈がこの龜山であるといふ。川の名を三隈といふのも、それに由來してゐる。肥豐國境の水こゝに蝟集して自然の潴水となつてゐたのが、筑後への落口を得て、湖底始めて日田盆地となつた。其の河幅の廣濶なのも、或は盆の底の潴水名殘りをとゞめてゐる爲めかも知れぬ。
夏は鵜飼を催ふして、遊覽の船、紅燈綠酒の興、岐阜長良の絃聲にも勝るといふ。山中水鄉の雅趣さもあるべし。賴山陽此地に遊んだ遺跡に、山陽館なる旅亭がある。 京美人を移植したといふこの地この水、山陽先生恐らく歸期を知らなかつたであらうか。
近世の儒者廣瀨淡窓を生む前に、俳人阪本朱拙を生んでゐる。朱拙も固と儒者になるつもりであつたのが、中途轉向して俳句に志したのであるといふ。淡窓の私塾は、當時北九州を壓する華々しいものであつた。が、一法體の隱者たる朱拙の遺著、「菊の道」「梅櫻」「芭蕉盥」「小柑子」「はつ便」けふを昔」など、九州俳諧の爲めに氣を吐いてゐる。又た以て日田產の一名物とすべきであらう。
朱拙の墓碑さへ尋ねることの出來ない程、其の韜晦ぶりは徹底してゐる。この山、この水、永久に其の秘密を緎して語らうともしないのである。小やみになった雨が、又た一しきり軒を叩いて過ぎる。四方晦濛、又た山と水とを辨じないのであつた。
——了——
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