top of page

旅中のさま/\

更新日:2 日前

大正末から昭和にかけて与謝蕪村研究をしていた碧梧桐。蕪村を追いかけてあちこちに出かけています。この紀行文では兵庫の但馬出石、京都の宮津、兵庫の播磨龍野に訪れています。

書きおこしにあたり、なるべく旧字旧仮名で表記しています。但しフォントによってブレがあり、全て旧字になっていません。


三昧社 [編]『三昧』(10月號)(8),三昧社,1925-10


────────────────────────────────────


河東碧梧桐

 

钁鑠たる櫻井翁

 大正十四年八月十日、蕪村を追ひかけて但馬出石に行く。八鹿驛から乘合自動車がある。途中靑田の中に、草取りにしては白い裝束をした人間がゐると思つたら、あれは鶴だ、と敎へてくれた。出石の巣籠り鶴のことを久しい以前新聞で見たことを憶ひ出す。其の巢籠りの松も、すぐこの頭の上の山にあるとのことだつた。

 宿につくと、櫻井さんのお客ですか、と奥の間が用意してあつた。今は故山に餘生を送つてゐる櫻井勉翁を紹介する人があつたので、未見の人ではあるが、一二度依賴の手紙を出しておいたのだ。一息入れてから櫻井翁を訪問しようと思つてゐると、もう詰襟の服のかひ/\しい姿をした、小柄な老人に襲はれた。それが櫻井翁だつた。八十餘歳ときいてゐるのに元氣は颯爽としてゐる。鶴の巢くふやうな土地の人は、矢張どこか違ふものらしい。 

 晩餐を共にして、少しく酒氣がまはると、翁の元氣は更らに幾倍して談論風發、宛然鳴雪翁以上に接するの慨がある。 おかへりにはお車を、といふ宿の細君をステツキで追ひ散らす勢ひに、すつかり敬服してしまつた。

 蕪村と手紙をとりやりした、霞夫、有橘等當時の俳人の噂さをしても、土地の人には全くの無緣佛で、何の手がゝりもなかつた。が、霞夫が後に佛白と改號したこと、それは俗姓蘆田、屋號を堺屋と言つた名主であつた事を慥めたのは、全く翁の賜物であつた。若し翁が健在でなかつたら、それだけの事も知ることは出來なかつたのだ。

 堺屋の緣族のまだ出石に往つてゐる中易氏によつて、遂に佛白の墓を發見し、其の辭世吟、共歿年月、其の享年、及び其の遺墨等も明らかにすることを得た。

 蘆田家の裔(目下大阪住)で、舊盆の爲め歸郷し、其の菩提寺に供養を依賴しに來た人と、霞夫の過去帳を見に往つた私らとが、偶然同じで落合つたのも、一つの奇であつた。

 

山中の畫寢

 出石から宮津に出るのは、汽車では著しく迂廻路をとらねばならぬ。山越しに、この度開通した天橋驛の方へ直通する乘合自動車があるとのことで、約二時間中山といふ山中の寒驛についた。こゝで丹後から來る乘合に乘りかへねばならぬ。こちらから正午前についても、向ふからは三時過ぎの汽車に間に合ふやうにしか來ないのだ。乘物は文化的でも、接客ぶりは、まるで雲助根性なのに業を煮やしたが、こんな山中ではハイヤーのありやう道理はない。宿屋に往つて晝飯のビールを倒しながら、思ひきりのさばつて畫寐をする。

 幸ひに幕を吹き拂ふやうな風があつて、心ゆく許りの午睡をした。連日の疲勞爲めに洗ふが如く去つた。

 

蕪村の五百羅漢

 蕪村が宮津時代に書いた繪が、其後あちらこちらから掘り出される。小室洗心氏を始め、六花園霞衣氏等殆んど予の爲めに旦暮發掘に暇がない程だ。午後五時に岩瀧に著いてから、夜九時までハイヤーを飛して各處の藏品を見てあるいた。

 餘りほぢくると瓦礫も交つて來る、と笑つた程、今度の發掘品にはイカサマなものが大分交つてゐた。 

 宮津灣を抱へた岬の突端近く田井の養福寺といふ寺がある。田井へは自動車は言ふまでもなく、自轉車さへ通らない。モーターボートで海上から行く外はない。そこに蕪村の五百羅漢があるといふ。十二幅對の大作だといふ。それほどの思ひをして往つたところで、例のイカザマであるや否やを危惧しながらボートを命ずる。 

 盆で忙しげな和尚さんも、私ら一行の熱誠に同情して、快よく展觀してくれた。

 十二幅對と言つても、もとは屏風一双であつたものらしい。中央に大樹の柳をかいて、其幹や枝が左右にひろがつてゐる。樹の下には遠近の丘陵草花などが配置してある。さうして其丘陵樹下に羅漢の群集を點綴してゐる。言はゞ山水の間に五百羅漢を配置したものだ。先づ獨創的な構圖に打たれる。のみならず、其の筆致も洗鍊されてをり、著色も澁味を帶びてゐる。無落欵ではあるが、蕪村の筆に一點の疑義もないものだ。 

 恐らく在丹時代の作としての大作であり、又た其の上乘に位するものだ。どれほど澤山なイカサマ物を見なければならないとしても、この五百羅漢によつて、其の汚れを一掃するに足るのであつた。

 

唯一の讃岐よりの書翰

 蕪村が丸龜や琴平に遊んだ消息は、直接史料として甚だ稀薄である。 

 讃岐に渡る前夜、播州龍野に一泊して、同地好事家の所藏にかゝる蕪村を一見した。井口泥前舊誼によつて奔走至らざるなしであつた。

 中に淺井彌兵衞氏所藏、額面にした蕪村の手紙があつた。

今明日斗之讃州と存候得は山川雲物共ニあはれを催申事に御座候

其上何角と懐憂患事のみ多候故不堪揮毫

などゝあつて、讃岐の消息を傳へるものとして始めて我らの網膜を射るものだつた。日附は「卯月廿二日」、宛名は「玄圃樣」とあり、丸龜又は琴平の歌詠みか漢學者であらうことも思はれた。

 私が讃岐に渡らうとする前に、偶然ながらこの書翰に接したのも亦た一つの奇緣だつた。

最新記事

すべて表示
美濃より=伊豫へ=九州へ

江戸時代の「俳諧」をテーマに、特に芭蕉周辺の人物に焦点を当てて、岐阜県、愛媛県、大分県へ訪れている紀行文です。 書きおこしにあたり、なるべく旧字旧仮名で表記しています。但しフォントによってブレがあり、全て旧字になっていません。...

 
 
 
新宿より熱海へ

碧梧桐にしては珍しい、家族旅行で熱海行のバスツアーに参加している様子を描いた紀行文です。 書きおこしにあたり、なるべく旧字旧仮名で表記しています。但しフォントによってブレがあり、全て旧字になっていません。 『旅』13(1),新潮社,1936-01...

 
 
 
食味私議

食に一家言ある碧梧桐による、味や土地ごとの食に関する随筆。 書きおこしにあたり、なるべく旧字旧仮名で表記しています。但しフォントによってブレがあり、全て旧字になっていません。 『女性』10(4),プラトン社,1926-10....

 
 
 

Comments


bottom of page