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山陰景觀の種々相

河東碧梧桐著『中央公論』p.370-379 昭和7年9月(通巻537号)掲載


色々準備ができたら青空文庫に載せたいなどと考えていますが、それまではこちらで公開。


http://takuhi-shrine.com/material.html >西ノ島町誌>観光原稿

以上の論文によると、昭和7年に島根県の観光協会からの依頼で視察に来た碧梧桐が、視察のスケジュールの中に隠岐の島が入っていないのを不思議がり急遽スケジュールに入れ(碧梧桐の文章読むと、どうやらとても隠岐の島に行ってみたかったようだった)、この紀行文を中央公論に発表したらそれ以降文化人が隠岐の島に詰めかけるようになったとの事で、

観光地としての隠岐の島(というよりか隠岐の島の岩が最高だということ)を発見した偉業をもっていたことがわかる文章です。


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  因但風景の序幕


 城ノ崎温泉の震災後に立ち直つたモダーン振りを始めて觀る。内證はいざ知らず、外觀は兎も角、寶塚、有馬そこのけである。同じ震災地の豊岡が、尚ほ焦土の痕跡を覆ひ盡さないに比して、温泉といふものゝ持つ魅力と、其の效驗の偉大さに、今更ながら驚歎の聲を放つのである。

 かくまでモダーン振りを發揮するなら、百尺竿頭に一歩をすゝめて、其の外湯制度を、なぜ内湯制度に改めなかつたかゞ大きな疑問である。宿の燒印を打つた下駄を突ツかけて、外湯に通ふのも、或る温泉情調の添景ではあるが、要するに外湯は、原始温泉の遺風である。湯を暗渠で引くなどといふ知識のなかつた遠い昔の仕來りである。各戸の需要を充す泉量に惠まれてゐるなら、他の文化設備と同じレベルに、原始温泉の遺風も排除すべきであつたのだ。

 それよりも、城ノ崎の町を懷ろに抱くやうにしてゐる南側の山めぐり──油筒屋裏から登つて温泉寺に下る──、恐らく城ノ崎眺望の第一に推さるべき曲折のある散歩區域、それが或るがまゝに放り捨てゝある。躑躅、山吹、藤、あるは櫻、紅葉の風致を添へて、道をしつらひ、休み屋を營めば、それこそ城ノ崎にふさはしい大公園であるべきだ。今一歩をすゝめて、連亙する山から來日嶽《クルヒダケ》の頂上を窮める道を開き、日を期して温泉守護の山祭など創めんはいかゞ。

 更に眼を北方|津居《ツヰ》山の方に轉じて、其の港外日本海に面する岩石美を看よ。疎鬆な肌合ひをした裸岩が、仰臥起伏して、一幅の晝面には纏らない風致を展開してゐる。古い「但馬考」といふ書にも、城ノ崎の浴客が好んでこゝに遊ぶことを記してゐる。今はこの岸壁に一二の旗亭らしいものはあるが、海岸を逍遙する道もなく、直に小舟を艤する用意もない。これも先づ在るがままに打ち捨てられてゐるのである。

 圓山《マルヤマ》川ではハゼやキスを釣るのも一興でないことはない。が、この外海岩石を伴侶として、日本海の長風に吹かれ、生きたサヾエやアハビを肴にするのも亦た變つた興味である。城ノ崎に遊び場處がないのではない。この岩石美は、それより西南因但國境に展開する海岸美の序幕、其の前奏曲ともいふべき布置結構を具備するのである。もつと手輕に、もつと品よく、この海岸を城ノ崎の繩張りにする考案者の出なかつたことすらが、一つの謎である。

 

  松


 近年の發見にかゝる皆生《カイキ》温泉は、やがて米子市に編入され、次いで米子温泉と改稱するに至るであらう。全國の貧縣として名高い鳥取縣中にあつて、單り氣を吐く米子市の潑剌たる活氣は、晝寢氣分への好清爽劑である。この温泉の持つ特種の風致は、延長の十里に垂んとする際涯のない砂洲の彎曲線である、房州の九十九里に見る遠淺のそれでもなく、淋代《サビシロ》の航空機すべり臺のそれとも違ふ、大天橋たる夜見が濱から出雲半島の突出を前に控へて、背ろに伯耆大山の巨姿を負うてゐる。見渡す限り山もなく丘もなく、テーラ一面の海を抱へた平面圖には、むしろ大山の巨姿も閑却されてしまふ野放圖さに惠まれてゐるのである。皆生の源泉、強熱な鹽類泉は、幾度か海潚に其の噴口を浚はれたやうな、この砂濱に湧きつゝある。米子にある、根の偶然につながり合つた連理ノ松が、天然紀念物に指定されるやうなら、このノツペラポーな砂濱に湧く温泉は、更に一層奇跡的天然記念物としての價値を認められさうでもある。

 十里の長距離に渡る砂洲は、昔遠大な志を懷いてゐた人でもあつたのであらう、直路邁進、松の一手の防風林で覆はれてゐる。打見たところ、松はまだ十年乃至二十年の若木に過ぎぬから、到處に名木老松の多い我が植樹美から言つて、裏|露路《ロヂ》の棟割長屋ほどの風情もない、薄汚《うすぎた》なく、伸びほうけた坊主頭のそれに似てゐる。が、五十年百年の後、十里の白砂に蜒蜿する老幹蟠屈の臥龍、海風に長嘯し咆哮する壯美を、誰が想見し得ないであらうか。目下米子市の中心人物、商工會の吉田理事曰く、皆生に櫻でも植ゑて花時の賑はしを、といふ人もありますが、予曰く、この十里の白砂を生かすものは何ですか、米子は松で來い!の意地張り位あつて欲しいものです。

 

  唄の碑


 恐らく未來永劫大衆の間に流行をつゞけるであらう安來節の發祥地、社日公園に、安來節の碑なるものがある。安來節創吟者の記念でなくて、唄そのものゝ碑であるのが、唄を一個の人格者扱ひしたのが、如何にも奇拔である。其の碑の形が、戰場勇士をでも録するやうな──來歴はあるだらうが──ギゴチなさであるのも、更に一層奇拔である。

 唄の記念を意味するなら、この公園に永久の音樂堂でも築いて、正調安來節保存の春秋二季大會を催す建議をしたい。公園を日本臺まで擴張して、風雨に崩れ易い赤土道に、有限の經費を注ぎ込むより、むしろ有意義な企てでないであらうか。

 

  四脚門 精進料理 尼子城趾

 

 後醍醐天皇の開基覺明禪師に寄せられた綸旨の數々によつて名高い雲樹寺は、出雲名刹の一たるを失はない。其の國寶たる四脚門は、將に風雨の前に傾んとしてゐる。樓門を入つての庭園ともなき本堂前の廣場、巨松三四株を中心にして、巧まざる清爽の氣に充つ。折柄の細雨の滴りにも覺えず彳まねばならない靜寂に打たれる。方丈で抹茶の饗に與りながら、既に近郷に著聞してゐる現佳和尚の、綸旨來歴談を默聽するのも、亦たこの名刹にふさはしい一添景であつた。

 清水寺は推古時代の草創、出雲最古の一寺であるだけ、四圍の山々と伽藍の配置、石段の結構など、淨らかに古い匂ひがする。殊に可いのは第一の山門から、峽谷らしい石疊みを踏むこの寺の入口である。新樹のトンネルを潜る迂餘曲折の幾町、それが清水寺境内の閑雅幽邃を一層深める草創者苦心の存するところであらうものを、境内の飮み屋、賣店など、トタン、ペンキの惡彩を凝して、折角の閑雅を裏切り、幽邃を蹂躙してゐる。晝餉の御馳走に出た精進料理が、鮎の形をし、蒲鉾のそれに擬せられてゐるのと、一脈相通ずる人爲の歪景だつた。

 廣瀬の町、昔は富田《トダ》と言つた唯一の記念物は、尼子氏城趾月山あるのみである。この城趾の大鼓櫓を、名もそのまゝに公園に展いてゐる。月山の土の中から、井戸であつた穴、崩れ殘つた石垣の一片、それらを發掘する毎に、祖先の墳墓に逢著したやうな愛撫を感ずる廣瀬人の懷郷熱には敬意を表せざるを得ない。

 

  宍戸湖


 曾遊の二十年前が、風雪の冬であつたせいかも知れない、五月の山陰は、何處も朗らかで明るい。壓しつけるやうな陰鬱な暗澹さ、神話見たいに包藏された祕密な洞《うつろ》、それらが總てベールを取り去つた赤裸々の明快さだ。殊に波も立たない、眠つてゐるやうな宍戸湖を前にしては、己れ鏡面に向ふやうな透徹した晴れ/\しさだ。取亂した旅姿が氣恥しくなるよりか、幽鬱や執著や、ヒガミやヒネクレの人間性毒氣が、一時に洗ひすゝがれるやうだ。廣瀬の月山城を、この地に移したと言はれる堀尾氏の心事も、戰國時代の單なる要害や攻防の手段のみではなかつたであらうことが諒解出來る。武人の眼にも涙あり、戰禍の血腥さの生む發心と言つたやうな、心胸に觸れる機微の本然性、それなのだ。

 湖面をかすめた名殘の夕陽が、次第に對岸の枕木山を始め、島根半島の山々を、薄靄こめた濃紫に染めて行く。靜かで、夢見るやうで、正に詩の國の麗しさだ。

 うつとりと我を忘れてゐる耳もとで、最近湖岸道路を作つて、自動車ドライヴをやるといふ松江市新計劃の話をする人がある。湖を何十米突か埋め立てゝ、マロニエの並木を植ゑる・・・・いづれは瑞西式輸入のハイカラ案らしい。地勢と國情と環境を無視した、抽象文化設計、木に竹ついだブザマに了らねば、とつひ老婆心も出る。尤も、不昧公の遺跡菅田庵よりか、小泉八雲の住宅の方が、松江名物に指を折られる時代になつてゐる。松江大橋をコンクリーで固めて、電飾を晝のやうにする名案も繼起するだらう、ではないか。

 

  玉人 盲人

 

 玉造温泉の設備は、二十年前の小屋掛けとは、正に一世紀以上の躍進である、城ノ崎のそれとは別に、蛙聲蝉聲に耳を澄す。

 泉量の豊かな、泉質の濃かな湯に浸つてゐると、そゞろに想ひは神話時代に輩出した勾玉作りの工人の昔に溯る。玉磨りの砥汁の流れたほのかな匂ひさへが漂つて來る。

 一畑藥師は、今に醫師に見放された眼疾者のお籠りで賑つてゐる。裸足でお百度を蹈んでゐるのもある。

 麓から御堂までのこゝの石段、我等の歩調子甚しくそぐはない中途半端な造りも、盲人の足どりを基調としてゞあることを發明する。さすがに山陰に鳴つたお藥師、石段までが迷信の仲間入りをしてゐるのである。

 

  岸壁美

 

 大社に參拜して、次いで日御埼に詣る。出雲に來て、この二社に額づかぬわけには往かない。

 日御埼に來て、海猫──鴎の異名である──の蕃殖する、天然記念物の奇な島──島といふよりも大きな俎板岩──よりも、燈臺を中心にする岸壁の巨岩重疊、隆起し蟠踞し、激浪と相鬩ぐ雄偉の壯觀に胸を躍らせる。次いで宇龍《ウリウ》に下りると、灣口の群島亦た配置の宜しきを得てゐる。

 出雲浦の勝地を、加賀の潛戸《クケド》、七つ穴、海金剛などいろ/\に數へてゐるが、恐らくこの日御埼の岩石美を以て其の白眉とするであらう。

 岩上の草生に筵を敷き、この地名物の壺燒を噛つてビールを傾けながら、島根名勝の宣傳至れり盡せるに、この岩石美を逸してゐる景觀の不感性を笑つた。

 

  大山は出雲の山

  

 枕木山登山をすゝめる人に、私はいつも答へた。二十年前嵩《ダケ》山から、雪の大山と、松の大天橋と中ノ海の光彩陸離たる好眺望を壇にした。其の印象はまだ生ま/\しい。四季の異なつた眺望はあるにしても、其の強印象を傷ける愚を學ばないと。

 美保關に來て、近頃開いた五本松公園に登る。遮るものもない眼下の大灣は、皆生米子の十里の白沙を遠巻きにして一杯に懷ろを擴げてゐる。其の廣濶たる海中に、筍でも植えたかの大山が聳立する。さうして右手には、弓ケ濱を隔てゝ中ノ海の島々がごちや/\、遠く枕木、嵩の諸山につゞく。

 處變れば品かはる、同じ大山中心の眺望にも、關には關のものがある。關の凋落挽囘策として、五本松公園に娯樂兼用の大ホテル建築の案があるといふのも一應は首肯出來る。それにしても大山は遂に伯耆の山にあらず、眺めるに都合のいゝ出雲の山であつた。

 

  島後景觀─白島

 

 朝早く隱岐の首都西郷に著くと、この凪ぎなら發動汽船が出せるといふ。すぐ出發する。隱岐の最北端、白島《シロシマ》の景勝を志ざすのである。西郷港を出でゝ沿岸を北上する。大久《オホク》、犬來《イヌク》などの漁村を過ぐる毎に、奇岩怪礁漸く送迎に多忙。布施《フセ》に至つて、港外の諸島諸岩神出鬼沒して既に一景觀を成してゐる。之を白島の前哨として、次いで中村《ナカムラ》に入れば、兜岩鎧岩の奇岩を始め、斷崖天柱更に雄偉に又錯綜する。これらの序曲が層々迫つたクライマツクスが白島となるのである。

 中村で拉した小舟に乘り移る。海は探し、波なくしてうねる。漂々漾々として、一岩を送り一礁を迎ふ。さうして又た巨洞を潛る。岩が白くならなけりやア、まだ白島ではないぞ、と誰かゞ叫ぶ。

 さう言へば、今までの布施、中村の岩礁は、子持岩を玄武岩に似た柱状岩か、横に赭い筋のはいつた名も知れぬ斷層まで、一樣にドス黒く塗りこめられてゐた。それが白島に入つて、先づ第一白堊の巨塔とも見える立岩に逢着する。色彩の形勢頓みに一變するのである。そこらに大きな島が、右に左に横はつてゐる。其の肌合も灰白に照り渡れば、陸岸に立つ斷崖も、腕を伸べたやうな丘陵も、風雨に寂びた花崗岩の建築を偲ばせる。何か知ら、巨大な宮殿とも魔境ともつかぬ異樣な世界に吸ひ込れる氣持だ。このまゝ何處かへ舟もろとも流れてしまひさうだ。ギリシア式の圓柱の併列が、緑波に映ずる幻像が湧く。アフロデイーテ女神を救ひ上げたといふ神話の舞臺も、こんな灰白岩彙の裝置結構ではなかつたのか。あの有名な代理石彫刻に現はれた處女の吹く双管の笛の音もするやうに、耳澄み氣も昂る。

 一つの島にたどりついて、白島神社の小さな禿倉《ホコラ》のあるところまで上る。この島には天然記念鳥ミヅナギ鳥が巣くふてゐる。松の根土の穴を聞くと、よみの國に通ふやうな神祕な聲のするのも、この時にふさはしい。

 島の上から陸の見晴らす高低參差の岩の殿堂は、正に白島風景の最も纏つた、些の緩みもない、廣大な畫幅のそれであつた。マンモスの脊柱のやうに、巨大な鼻を海中に突き出した横丘を中心にして、背ろ高に岩壁を層々築き上げ、左に巨岩展き、前に斷崖立つ。それを風致の備つた松で、緑どりをし、冠を掛け、點綴微妙を極める。これが本統に壯美といふのか、雄渾壯大であつて、而もスマートであり、大斧鉞を加へたやうで、細かい技巧を忘れてゐない。それは鬼神と天女の合作であり、觸るゝものを薙ぎ倒す風雨の暴威のあとを、繍工の針でやさしくつづくつたものであつた。

 隱岐の景觀が、かほどに勝れた秀でたものであらうとは豫期しなかつた悦びを胸に祕めて、歸途は西海岸福浦《フクラ》に廻り、水若酢神社に詣り、島後を縦斷して西郷に歸つた。

 

  島後雜觀

 

 白島探勝の翌午後から西南の烈風になつた。小さな西郷灣ですら、汐烟が矢のやうに走つてゐる。丸三日航海杜絶。其の爲め却つて隱岐内部の探勝餘日を得た。後醍醐天皇行宮の跡國分寺、玉若酢神社、光任民族横穴の遺跡、島内唯一の檀鏡の瀧等。

 横穴の遺跡は、内地關東にある松山の百穴の類、發見が新らしいので、窟内に原始彫刻の二三を觀ることが出來る。が、それもやがて風蝕してしまふであらうことが惜まれる。

 檀鏡の瀧を見に行く自動車が、途中の村役場から鍬を一挺縛りつけた。日本の泥除けといふものが自動車の驚異である世の中に、鍬との道連れは、さすがに遠島の珍風景。が、幸ひに其の鍬を使はねばならないやうな惡道路ではなかつた。

 島の人は島前島後を、明らかに「どうぜん」「どうご」と發音する。伊豫の「道後」温泉も、昔は他に「道前」といふ地名のあつた稱呼の名殘であらうといふ。島はたゞ宛《アテ》字である。どうぜん、どうごの發音が正しい。

 島後は遠くから見ても、つくね芋をつき合せたやうに凸凹してゐる。大滿寺山といふ千米突許りの最高峰を中心にして、螺頭贅瘤遠近相望むところ、佐渡の大佐渡小佐渡が、國中平ラを抱擁するとは全く別趣をなしてゐる。

 島後を縦斷するには、二つの大きな峠を越さねばならぬ。自然谷は深い。名産隱岐杉の伸びのいゝ、晝尚ほ暗き溪谷を行く時、身はさながら紀州熊野の森林地帶に在るが如し。

 西郷第一の旗亭鍋國主人、予の爲めに盛宴を設けた。烈風屋を搖がすさなか、火事火事の叫びがする。戸を開いて見ると、前面二階建の裏、盛んに火の子が飛ぶ。坐にゐた歌妓等先づ周章狼狽悲鳴をあげつゝ去る。この風は或は西郷を焦土と化するかも知れぬ。我等も避難の用意すべしと、すりかけた硯を包み、展げた筆卷を懷ろにする。姑らくして、今まで羽織袴でゐた主人、詰襟の黒服姿で現はれ、火事は錢湯の煙突のボヤ、もう大丈夫です、ホンに肝を潰させやがつた、といふ。近年二囘の大火に見舞はれた瘡痍尚ほ癒えざる神經の尖がつた樣、さもあるべし。風景に飮食に御馳走を滿喫して、尚ほ且つ火事のウエルカム、最早思ひ殘すこともない。

 水若酢神社御手洗の噴水、濃厚に硫氣を帶ぶ。近くの田圃の間に湧く水である。若し隱岐に千古未曾有の溫泉の經營される時が來たとしたら、其の發見の權利は予の手にある。

 玉若酢神社の社家に持ち傳へた大化新政時代の驛鈴二個は、天下唯一の至寶である。甲《カン》と乙《オツ》と、千年の微妙音耳底に透徹する。近來又た同時に使用された驛符を獲た。分銅の天保錢形をした、是も亦た至寶の一を加へるものであつた。

 烈風三日目の朝、大隱岐丸──五〇〇噸──風濤を凌いで入港した。午後七時出帆に便して島前に移る。

 

  島前景觀──國賀

 

 隱岐に渡る前、國賀《クニガ》の景觀を質すこと一再でなかつたが、國賀の地名すら知る者がなかつた。大|時化《しけ》の後の凪、幸ひに浦郷《うらがう》から發動汽船を出すことが出來た。土地の署長、校長、助役諸氏の案内である。船越《ふなこし》の小運河を西に外海に出ると、もう左手に垂直に立つた斷崖が見える。國賀の奇勝は、もうそこに第一線を劃してゐる。出來得るだけ陸近く船をやらせる。灣入するところも深くはいる。亂礁の間は、其の瀬を越える。

 斷續する斷崖は次第に勢ひを增して、四五百尺──千尺にも達する。眼もあやに頭上を壓して來る。何といふ海中に立てた野放圖な屏風なんだらう。餘り屏風だけでも殺風景といふのか、巨獣亂貌相挑む巨岩をあしらひ、それらの群礁を指揮するかの樓塔を立てる。左顧右眄、前進後退、屏風の威容と岩礁の亂舞、悠々玩賞すべきものでなくて、正に跪坐畏敬すべしだ。

 島後の白島の布置整然、色彩に富み、添景の備はるに比して、國賀は荒削りであり、單一であり、むき出しである。彼はつゝましく容姿を形づくり、此は卒直に蓬頭垢面を晒してゐる。帷幄に參劃する彼であれば、陣頭に咆哮する此である。それだけ威力があり、迫力があり、何者をも恐れない概がある。島前と島後と相異なる奇勝に惠まれてゐるのも亦た一奇である。

 國賀の中心地帶と思はれる岩上の草生に陣取つて、環坐行厨を開く。近くは出雲浦、遠くは秋田の雄鹿《をが》、青森の龍飛《たつぴ》、日本海岸の絶勝も、白島の整備、國賀の迫力には遠く及ばない。隱岐孤島の埋れたるや久し矣を歎ずる。現にこの岩、この草、この花、人間の匂ひを嗅ぎ、酒のこぼれの洗禮を受けたのも、開闢以來今日只今が始めてゞはないか。

 私が國賀の戀ふる久しかつた、其の報はれの餘りに大きかつたのに、むしろ呆然としてしまつた。この廣大無邊の大景の餘剩として、こゝでも小舟を操り、T字形をなした洞門を潛つたりした。

 國賀の特色は、斷崖千尺の壯絶な前面に對して、其の背面は豊滿なスロープに彩られ、牧場ともなり、又た畑地ともなつてゐることだ。急劇な變化、正反對の配合、そこにも國賀の豊かな持味を見捨てることは出來ないのであつた。

 

  島前雜觀

 

 島前は知夫利、西の島、中の島の三島が、中よくグラン・キヤナルを抱いて寄り合つてゐる。中の島の別府はこの運河を前にして、靜かな景勝を占めてゐる。別府に後醍醐天皇の遺跡といふ黒木の御處があり、西の島には、後鳥羽上皇の崩御された御火葬場の跡がある。

 中の島の燒火《タクヒ》山は島前の第一峰、恐らく昔烽火をあげた跡か。山上の大山神社に詣り、尚ほ數丁を登れば、島前を一望に俯瞰する景勝がある。

 隱岐の俚謡ドツサリ節は、島後では既に文化蝕してゐる。島前の私設歌妓──藝妓の鑑札を持たず、宴席の興を補けて、唄ひ彈き且つ踊る、浦郷《ウラガウ》の十姉妹、菱《ヒシ》のお春など其の名島中に響いてゐる──の潮さびた哀調と、越後の盲目《まくら》ごぜのそれに似た絃《いと》の合奏に、本來の面目があるやうだ。殊に其のドツサリ節に合せての踊りの手ぶり、野趣滿々、而も掬すべき魅力がある、島前の一名物、島後化せしめない、之も保勝の一つ。

 從來の隱岐觀光と言へば、島前の黒木御所、後鳥羽上皇火葬場御遺跡、島後の國分寺、玉若酢神社の五百杉、西郷の千疊岩位に止つてゐた。それは眞に隱岐の隱岐らしからぬ平板無味の行程であつた。今後は少くも國賀と白島の日本第一をプログラムに加へたい。たゞ如何せん兩奇勝に接近し得る海上平隱の日、月に二三囘に過ぎぬ。波の御機嫌のいゝ偶然を待つては、この大景も遂に寶の持ち腐れである。せめて陸上からでも、其の中心地帶を一瞥する必然の觀光路を拓かんことを切望せざるを得ぬ。

 夜半乘船いよ/\隱岐に別るゝ日、浦郷《うらがう》にて生マ海雲《モヅク》の馳走、香氣口腔に漲るの快、始めて海雲の醒醐味に接す。燒火山大山神社に一少憩の時、盆上に累々たる草苺、之れ亦た山上の珍味。白島探勝の時、生ける蠑螺を寄る波に洗つて頬張る、海上の珍味と相竢つもの。之を隱岐の山海三珍味といふ。

 

  陰陽鼎立

  

 隱岐より歸つて息もつぎあえず、石州に長驅す。幹線江津《ガウヅ》驛より支線に乘り替へて江川に沿ひ川戸驛下車。其夜市山村泊。翌早朝湯淺村長の先導で、千丈溪に入る。山陰に入つて始めてゲートル草鞋の輕裝を取る。

 昨夜來の雨に、水量を增し、黄に濁つてゐる。水の濁りは景觀の美半ばを減殺する。

 探勝の道は、まだ原始的樵路以上に出てゐない。飛び/\の踏み石は水を被つてをり、黒木の一本橋は、將に流れ落ちんとしてゐる。雨勢尚ほ執拗であるなら、歸途は多少の危嶮に瀕する、とかゝる危徑に馴れた者をも躊躇せしめる。幸ひ曉來雲薄く山顛處々青空を見るに至つた。

 入口の餘りに平易なこの日和川の上流は、先づ「魚切《ウヲギリ》瀧」を迎へて形勢一變、それより巨岩大石重疊として隨處に瀑布を懸け、源淵を湛へる。瀑の形亦た一樣でなく、漏斗に落ち、鎧袖に流れ、或は白髪面を覆ふあり、或は旗幟に翻へるさへある。其の間約一里、時に懸崖岩骨を聳立すると相竢つて、送迎に暇なしである。

 聊か峽谷の狹く、結構の小さい憾みはあるが、安藝の三段峽、長門の長門峽と併稱して、陰陽鼎立といふに恥ぢないであらう。

 村長のこの千丈溪保勝に當る專心の努力を謝する。溪中の樹木、漸く林相を成すもやがて再び伐採の期迫る、之を救ふの道、早く天然記念物の允可を得るに在り、と切々訴ふるところがあつた。

 石州にはこの外「斷魚溪」があり、雲州には「立《タチ》くえ」「鬼の舌震《シタフル》ひ」等溪谷の奇勝に富む。斷魚、立くえは局部的であり、舌震ひはやゝ岩石美に偏する嫌ひがある。入らずの谷として久しく人畜を拒否してゐた後進千丈溪に一籌を輸するであらう。

 

  蕎麥と玉苣

 

 一時晴れさうであつた雨が、風につれて又しぶく。遠望を限つてゐた東の山々が、森が、こちらのスロープの落ち込んでゐる谷が、烟る雨にぼかされる。すぐそこに、手にとるやうに見えてゐた子三瓶《こさんべ》か孫三瓶《まごさんべ》かの頭にも雲が搖曳する。私達三人の外、この山中に恐らく人影はあるまい、しいんとして、又た淨らかな雨中行軍である。三人は今、志學《シガク》温泉で腹をこしらへ、二里餘の道を佐比賣《サヒメ》村まで、態と徒歩を選んで下山しつゝある。森山村長は、我が山氣分で、愛撫と執著を可なり濃厚に持つ三瓶山の、この東の高原を歩かねば承知しなかつた。成程、和よかな草原、甜めたやうな傾斜、ふくよかに愛らしい山肌、上品で端整な針葉樹の姿、起伏する山々と森と谷の恰好の備つた配置、何一つ柔か味と氣高さと、すつきりした洗錬味を持たぬのはない。

 私も大抵の山には登つた。高山の雪線を幾度か往來した。下界で想像の出來ない、偉大と壯美と崇高にも屡々打たれた。が、山岳趣味は、其の半面に必ず下手物味《ゲテモノミ》を脱しない。何處か荒ツぽい投げやりな處がある。そこになると、この三瓶は、目にも見えぬ庭掃除でも附いてゐるかのやうに、總てが行き届いた上手《ジヨウテ》物味である。下手《ゲテ》物らしいガサツさが何處にもない。村長の宣傳なくとも、人なつこい、自づと暖か味を感ずる魅力がある。山岳の上手《ジヨウテ》物、森山村長も恐らくさうとは氣づいてゐまい。

 日暮れにやう/\村長の宅についた。自宅に私を連れたのは、三瓶蕎麥の粹を御馳走する他の誇りを持つてゐたからである。出雲に入つて以來、信州や東京の蕎麥とは、別な打ち方、違つた食ひ方の蕎麥のあることを知つた。三瓶山葵と共に山陰隨一の山陰蕎麥、それに村長の信ずる唯一の打手、其の蕎麥を味はずして、蕎麥を談ずべからずと來る。

 蕎麥粉は打つ前の挽きたて、雞卵も山芋も一切のトヂを使はない。やゝ切れ/\になつた蕎麥を椀に盛つて、薄目なダシとワキヾと山葵を藥味にかけ、茶漬を食ふやうに啜る。器物は大方漆器。

 宵に打つたのは、村長自らも餘り推稱しなかつた。自然賣れ口も捗々しくない。翌朝又た名譽恢復に打つ。香氣坐にみち、齒にさはらず腹に溜らず、正に上々極めつきの作。三人相競うて旺盛な蕎麥の天下。昨夜の賣れ口に鑑みてか、今朝の仕入れ豊かならず、甑《こしき》の底まではたかせて、蕎麥玩賞の凱歌を揚げた。さうなれば臺處でも負けてはをれない。急々援兵を募つて第二陣を布く。香ひと色と肌、一見してもうわかる。村長一箸を口にして曰く、ダメ!

 始め村長の宅に入る前、門前の畑を指ざして、此中何かお口に適ふものがありますかと。三うね許りの苣《チサ》、まアこれ位ですかと。山中の玉苣、ふくよかに黄玉を包む。

 一枚々々を剥いで、其のまゝ酢味噌で頬張る。一脉の苦味に野趣的香氣、言ひ知れぬ甘汁、不老長生の仙菜正にこれである。人物に異彩を放つ山中の村長も、この原始料理は未知の世界、山葵に蕎麥に、更に一新名物を加へたのを悦ぶ。予曰く、滅多なお客さんに御自慢なさると、三瓶で馬の食ふやうなものを出した、と言はれます。

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