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漁家三四菊うゑて松の中にあり

[表]

松川浦十二景之和歌

松川浦

儀同三司藤原基福 春やなをたぐひもなみのあけぼのにかすむみどりの松川のうら園

従一位基福 春や猶たくひも浪の曙にかすむミとりの松川のうら

水茎山

亜相源通誠 うつし絵もおよばむものか桜さく水茎山のはるのおもかげ

久我大納言通誠 うつし絵もをよはんものか桜咲く水くき山の春のおも影

文字島

大常伯雅光王 冬さむきみずにもうつす文字しまやおくれし秋の雁のひとつら

白川神祇伯雅光 冬さむき水にもうつす文字嶋やおくれし秋の雁の一行

紅葉岡

銀青光禄大夫藤原雅豊 名もしるくいくしほそめていろやこき紅葉の岡の秋のこずゑは

飛鳥井三位雅豊 名もしるくいくしほそめて色やこきもミちの岡の秋の木すへは

松沼浜

金紫光禄大夫源重條 船よせてすずしき波に月をなをまつぬのはまの枩のしたかぜ

庭田中納言重條 船よせて涼しき波につきを猶まつぬのはまの松の下かせ

離崎

光禄大夫藤原季信 冬さむき色あらはれてはなれさきいはねのまつぞ雪に木たかき

阿野中納言季信 冬さむき色あらはれてはなれ崎岩ねの松そ雪に木たかき

沖賀島

羽林中郎将藤原為綱 おきが嶋見るめすゞしき夕浪のよするあしべそたぐひしもなき

冷泉少将為綱 沖か嶋見るめ涼しき夕浪のよするあしへそたくひしもなき

飛鳥湊

龍作藤原実業 よる船もとめてみなとの名をやしるあすは飛鳥のかはるうきねに

清水谷中将実業 よる舟も留て湊の名をやしるあすはあすかのかはるうきねに

川添森

刑部尚書源惟庸 夕月の光もきよく川添のもりて涼しきあきのはつかせ

竹内刑部卿性庸 夕月の光もきよく川添のもりて涼しき秋のはつかせ

鶴巣野

すみなれておのが名におふ鶴巣野に千世ふるひなのさかえをもみむ 特進源雅喬

白川二位雅喬 すミなれておのか名にあふ鶴巣野に千代ふるひれのさかへをも見む


[裏]

松川歌碑陰記

布浦淑縈回羣巒環擁實為海内絶勝貞享元禄之際中村藩主相馬昌胤選其十二勝命工畫之有㪽奏請 東山天皇 勅延臣十二人各詠歌以賜焉松川於是始爲名區〇舊臣佐藤宜幸将刻其于碑以傳不朽事殆就緒遽病歿其孫俊輔欲紹成祖考意志郡之有志者亦賛之請精明叙其由精朙深嘉其舉乃記槩于碑陰

 大正十三年三月 雙峯佐藤精明撰


 漁家三四菊うゑて松の中にあり 碧

 大鍋や松にかけたる蜊汁 [印]

 松川や虹の中なる十二景 春波[印]

※裏が碧梧桐の句


[説明]

三千里の旅の途次、明治39年11月7日、相馬の中村にある春波庵(舘岡春波宅)に宿泊。

翌日松川浦で十二景めぐりをし、水茎山の夕顔観音に登り松川浦を眺めた際、下に広がる元の松川の集落を詠んだのがこの句。

『碧梧桐全句集』を確認したところ、この句は見当たらなかった。

句碑は、大正13年旧暦3月18日、夕顔観音の遷宮祭の記念として建立されたと考えられている。


表は松川十二景和歌、裏は松川歌碑陰記、河東碧梧桐、巌谷小波、舘岡春波の句。


場所:



最終来訪日時:2022.9.4



参考文献:

・『ふるさとのあゆみ・漁業編』,原釜・尾浜・松川郷土史研究会,平成13(2001)年3月発行,p195-200


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