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砂白ろ尓庭燎焚くらむ楠の冬

[表]

大山祇神社に詣でる 砂白ろ尓庭燎焚くらむ楠の冬


[裏]

河東碧梧桐《かわひがしへきごとう》(本名秉五郎)明治六年二月二十六日生 昭和十二年二月一日沒。松山に生まれ、父が正岡子規の漢学の師、兄が子規の友人であったため、早くから子規に近づき、また高浜虚子とも少年時代より親交があった。京都の三髙に入学し、後に仙台の二髙に転じたが、学風をきらって中退し、上京して子規の俳句革新運動を助ける。やがて新傾向の俳句運動を起こし、自由律俳句を提唱する。この間、俳句行脚と称して全国を遍歴し、明治四十三年十一月十二日大山祇神社に参拝した。この句はその時の作であり、書は六朝体といわれるもので、この面においても一家をなしている。

 昭和五十八年一月吉日 大三島教育委員会


[説明]

句中の庭燎とは、庭で焚くかがり火のこと。特に君主の庭で松明を焚いて、夜中参内の諸臣を照らしたものである。(https://www.iyokannet.jp/ginkou/spot/detail/kuhi_id/98より引用)

続三千里での記載は以下の通り。

「十一月十二日。半晴、風あり。

  瀬戸内海の島通いをする小蒸気に乗って、この島に着いたのは午後四時頃であった。旧知菅菊太郎と久闊を叙する間もなく、大山祇神社に詣でると、すぐ宮司の案内で、宝物庫に導かれた。国宝の甲冑類で、この宝庫に蔵せられておるものが日本全国中の八割という多数を占めておるという鎧及び兜を始め、太刀、鏡等何れも稀代の業物の説明を聞いた。(後略)」



場所:

大山祇神社の目の前の大きめの通りを西へ、海の方向へ進んでいった先



最終来訪日時:2022.1.2



参考文献:

・河東碧梧桐著『続三千里(下)』,講談社,昭和四十九年九月(初版),p41-43

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